バイブル・エッセイ(892)苦しみに寄り添う

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苦しみに寄り添う

モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は(イエス)主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:22-32)

 幼子イエスを見たシメオンは、自分はようやく去ることができる、なぜなら「私はこの目であなたの救いを見たから」だと言います。イエスはまだ幼子ですから、人びとの病を癒したり、権威ある言葉で語ったりしていたわけではありません。おそらく、マリアの腕の中で「オギャー」と泣いているか、すやすや眠っているだけの赤ん坊だったでしょう。では、シメオンが見た「救い」とはいったい何だったのでしょう。

「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」というヘブライ人への手紙の中に、そのヒントがあるように思います。この箇所を読む限り、イエスがわたしたちを助けることができたのは、イエス自身が試練の中で苦しみ、人間の弱さをご自分の身をもって知っていたからからということになるでしょう。つまり、イエスは、人びとの苦しみに共感し、苦しみに寄り添うことによって人びとを救ったということです。イエスは、人びとの苦しみに徹底的に寄り添い、大きな愛で包み込むことによってわたしたちの心を癒してくださる神。そうすることで、わたしたちを苦しみから救ってくださる神なのです。

 この救いを実現するために、神は人間としてこの地上に誕生する必要がありました。人間の弱さを知り、苦しみに寄り添うためには、どうしても神が人になる必要があったのです。神が人になることを決断し、人として地上に生まれたならば、そのときこそ救いの業が始まったことになると言ってもいいでしょう。シメオンは、それを知っていました。だからこそ、人となった神であるイエスを見たとき、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言ったのです。

 先日、心の病に苦しんでいる方々のカウンセラーとして働いている方から、こんな話を聞きました。さまざまな症例があり、薬なども開発されているが、結局のところ、どんな場合でも相手の話をそのまま聞いてあげるしかない。人間の心は、誰かに苦しい心の内を聞いてもらうことによってのみ癒されるのではないかというのです。確かにそうかもしれません。話を途中で遮られ、「あなたはいつもそうだ。そんな考え方だからいけないんだ」とか、「聖書にこう書いてあるだろう。だからこうしなさい」などと上から目線で言われても、「ああ、確かにわたしは間違っていました。救われました」ということには、なかなかならないのです。

 逆に、誰かが自分の話を途中で遮らず、最後まで親身になって聞いてくれるとき、わたしたちは心が軽くなり、苦しみが消えてゆくのを感じます。自分を否定せず、あるがままに受け入れてくれる人と出会うとき、わたしたちの心は、その人の愛の中で少しずつ癒されてゆくのです。心が癒されてゆく中で、わたしたちは自分自身の間違いを素直に認められるようになり、「神の子」として生まれ変わってゆきます。それが、「救われる」ということでしょう。神さまは、人間の心に生まれるそのような救いのプロセスをよくご存じだった。だからこそ、イエスを人間としてこの世界にお送りになった。わたしは、そのように思っています。

 イエスが、まったく無力でか弱い赤ん坊としてこの地上に来られたとき、この地上に救いが訪れました。わたしたちも、人間としての自分の弱さを知り、人びとの苦しみに寄り添うことによってイエスの救いの業に参加できるよう、そうすることでイエスの弟子となれるよう祈りましょう。