マザー・テレサの言葉を読む(24)舌の沈黙、目の沈黙


わたしは絶えず沈黙に帰ります。
舌を沈黙させればイエスに語りかけることができますし、
目を沈黙させれば神が見えるようになります。

 沈黙というと、わたしたちは音のない静かさを連想しますが、マザーが言う沈黙はそれだけではないようです。神と出会い、語り合うためには「舌の沈黙」と「目の沈黙」が必要だとマザーは言います。
 「舌の沈黙」とは何でしょう。第一には、口を閉じておしゃべりをやめることだと思います。無駄なおしゃべりはわたしたちの感情を波立たせ、心を乱してイエスの声を聞こえなくしてしまいます。沈黙の中でイエスの声に耳を傾けない限り、わたしたちはイエスと対話することはできないでしょう。
 「舌の沈黙」はそれだけにとどまりません。口を閉じたとしても、わたしたちの心はまだ無駄なおしゃべりを続けようとするからです。声にならなくても、わたしたちの心の中には「あいつをやっけたい」とか、「これをどうしても手に入れたい」とか、色々な声が鳴り響き続けます。イエスの声に耳を傾けるためには、この声も沈黙させる必要があります。さまざまな思いを手放し、すべてを神に委ねる必要があるのです。口を閉じていたとしても、神の声に耳を傾けず自分の声ばかりを聞くなら、それは考え事をしているにすぎません。
 次に「目の沈黙」です。「目の沈黙」とは、まず目から入ってくる感覚的な刺激によって心を騒がせないことでしょう。しかし、刺激的なものを見るのをやめただけでは、まだ目は沈黙しません。目は、外見でものや人を判断し、話し続けるのです。これは有名な花だけれどあれは雑草、この人は好感が持てるがあの人は邪魔などと外見だけで判断し続ける限り、わたしたちの目は沈黙することがありません。
「目の沈黙」のためには、このような判断もやめなければなりません。外見で判断するのをやめ「目の沈黙」が実現したとき、世界のありののままの姿が見えてくるでしょう。
 ありのままのこの世界は、神の恵みに満ちあふれています。目を沈黙させれば、ただの雑草と思って見ていた花の向こうに天国を垣間見ることもできますし、これまで嫌っていた人の顔の向こう側にイエスの顔を見ることだってできるでしょう。
 こうして舌と目を沈黙させたとき、わたしたちは自分の言葉ではなくイエスの口から語られる愛の言葉に耳を傾けることができ、目に映る世界の向こう側にイエスの姿を見るようになるのです。