バイブル・エッセイ(176)誰の声に耳を傾けるか


誰の声に耳を傾けるか
 エスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。(ルカ24:24-35)
 イエスの死という思いがけない出来事に直面した2人の弟子たちが、不安と恐れに駆られてエルサレムからエマオへと逃げていきます。ですがイエスと出会い、その声を聞いたあと、この2人の弟子たちは厳しい現実の待つエルサレムに向かって直ちに引き返しました。心に、信仰の炎が燃え上がったからです。この出来事は、イエスの声に耳を傾けることがどれほど大切かをわたしたちに教えてくれます。
 信徒数の減少や若者の教会離れなど、現在のカトリック教会も大変厳しい現実に直面しています。わたしたち一人一人も、それぞれの生活の中にいくつかの試練を抱えてるかもしれません。そのような厳しい現実に直面した時、わたしたちは誰の声に耳を傾けるべきでしょうか。自分自身の声に耳を傾けても「ああ、もうだめだ。もう我慢も努力も限界だ」という声が聞こえてくるだけかもしれません。同じような苦しみを抱えた人と愚痴をこぼしあっても、同じところをぐるぐる回るだけで、決して事態が好転することはないでしょう。
 わたしたちが本当に耳を傾けるべきなのは、自分の声でも、同じ苦しみを抱えた仲間の声でもなくただイエス・キリストの声だけです。弟子たちの時代には旧約聖書しかありませんでしたから、イエスご自身が現れて弟子たちに聖書を説明してくださいました。ですが、わたしたちにはイエスの言葉そのものである新約聖書があります。ですから、試練に直面した時にはただちに福音書を開き、そこに書かれたイエスの声に耳を傾けることが大切だと思います。
 「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」というイエスの言葉に、福音書が証する希望が要約されている気がします。神への愛ゆえに人間の苦しみを味わい尽くしたイエスは、その苦しみを通して栄光へとあげられました。十字架につけられたイエスは、わたしたちの苦しみに深く共感してわたしたちと共に泣いてくださいます。そして、復活したイエスは、その苦しみの向こう側にある栄光の世界へとわたしたちを導いてくださるのです。ここに、わたしたちの希望があります。
 イエスが与えてくださる希望はわたしたちの心からあらゆる不安や恐れを拭い去り、わたしたちの心を燃え上がらせます。苦しいときには、自分だけで思い悩むのでも、誰かに相談するのでもなく、まず聖書に手を伸ばしてイエスの言葉に耳を傾けましょう。
※写真の解説…鮮やかに咲いたケシの花。神戸・布引ハーブ園にて。