忘れられたスラム街〜スモーキー・マウンテンからの報告10


福音の証
 今から18年ほど前、大学生の頃にもこのスラム街を訪れたことがある。まだ巨大なゴミの山が、化学反応で燃えて煙を上げていた時代のことだ。様々なゴミがまじりあい、科学反応して作り出す悪臭は、筆舌に尽くしがたいほどのものがあった。まるで色が見えるのではないかと思うほど、手で触れるのではないかと思うほど濃い臭気だった。どろっとした悪臭に全身が飲み込まれていくような、次第に息ができなくなっていくような、そんな感じがした。スラム街のいたるところに汚物が散らばり、数百万のハエが飛び交っていた。
 驚いたのは、そのスラム街の中に小さな教会があったことだ。司祭が住み込み、そこで毎日ミサを立てているとのことだった。ゴミの山の中に立ったその教会の十字架を目にしたとき、わたしは心の底から感動した。貧しさのどん底にある人々に神の愛を高々と宣言するかのようなその十字架を見て、これこそまさにキリスト教だと思ったからだ。そこで働く司祭の姿は、まさにキリストの代理者のように見えた。
 それから18年の年月を経て、まさか自分がこの場所でミサを立てることになろうとは思わなかった。2週間の滞在中、TNKのセンターに集まってくる子どもたちと地域の人々のために毎日ミサを立てさせてもらったが、一回一回が実に感慨深いミサだった。泥まみれの子どもたちや疲れた表情のお母さん、お父さんたちの前で御聖体を高々と天に掲げたとき「わたしはこのために司祭になったのだ、これがしたかったのだ」としみじみ思った。イエス・キリストが今、御聖体においてわたしたちと共にいてくださる。御聖体から神の無限の愛があふれ出し、集まったすべての人々を包みこみ、さらにスラム街全体を包み込んでいく。ミサのたびごとに、その厳かな現実の前に圧倒され、司祭召命を与えられたことに心の底から感謝した。
 カルカッタで召命を考え始めたころに感じたのも、まったく同じことだった。世界中どこでも御聖体をかざして神の愛を高々と宣言できる、そんな司祭の姿に憧れたからこそ、司祭になれというマザー・テレサの勧めを実行に移す気持ちになったのだ。結局のところ、御聖体にましますイエスの愛を人々に証すること、それこそがわたしの召命の原点であり、終点なのだと思う。今回のスラム滞在を通して、そのことを確認できたのは大きな恵みだった。これから世界中どこに派遣されたとしても、生活のあらゆる場面で、とりわけ生活の頂点としてのミサの中で、この召命を全うしていきたいと思う。
※写真の解説…孫を大事そうに抱えた女性。