バイブル・エッセイ(913)永遠の命を生きる

f:id:hiroshisj:20200612172939j:plain

永遠の命を生きる

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハ6:51-58)

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とイエスは言います。キリストの肉であり、血である御聖体を頂くとき、わたしたちはキリストの命と一つに結ばれ、キリストの愛に満たされて永遠の命に導かれてゆくということでしょう。深い祈りの中で御聖体を頂くとき、わたしたちの人生は、キリストと共に自分のすべてを神に差し出す人生。自らの命を十字架につけることによって、永遠の命に移されてゆく人生へと変容するのです。

 食べたり、飲んだりすることによって、わたしたちは食べた物、飲んだ物と一つに固く結ばれ、結ばれることによってそこから命を得ます。たとえば、わたしは近頃、机に向かって仕事をするときにインド土産のダージリンティーを入れて飲んでいますが、一杯の紅茶によって、心がインドの大地、インドの人々と確かに結ばれてゆくのを感じます。作業をしたり、別なことを考えたりしながらではいけません。仕事の手を止め、紅茶の香りを深く吸いこみながら、インドを思い起こす時間が大切です。ヒマラヤの丘陵地帯を覆って広がる青々とした茶畑、そこで懸命に働く人々、すべてを包み込むように見守る世界第3位の高峰カンチェンジュンガ。それらを思いながらほんのり苦みのある紅茶を飲むとき、わたしは心も体もインドと結ばれ、インドの大自然の中に宿った神の命、働く人々の中に宿った神の命と一つに結ばれてゆくのです。そのとき、わたしの心は安らぎに満たされ、また仕事を頑張ろうという力が湧き上がってきます。

 聖体拝領は、食べたり飲んだりすることによって神の命とつながってゆく究極の形だと言っていいでしょう。他のことを考えるのを一切やめ、イエスの生涯と言葉、それらを通して余すところなく示された神の愛の偉大さを思いながら御聖体を頂くとき、わたしたちは心も体もイエス・キリストと固く結ばれ、キリストの命と一つに結ばれてゆくのです。普通の食事と決定的に違うのは、キリストの命と結ばれるとき、わたしたちの心は貧しい人々、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人々を思い、その人たちを何とか助けたいと願うキリストの愛で満たされるということです。キリストの愛に満たされ、キリストと共に、助けを求めている人たちのもとに出かけてゆかずにいられなくなるのです。キリストの愛に突き動かされ、人々のために自分を差し出す中で永遠に変わらないものと結ばれてゆく。肉体が滅びても決して滅びない、永遠の愛の世界へと移されてゆく。それが、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という言葉の意味ではないでしょうか。

 コロナ禍の中にあって、この教会でも半分の方は今日、ミサに参加することができません。ですが、心の中で御聖体を味わい、御聖体の恵みを頂くことはできます。大切なのは、聖書に語られたイエスの言葉をしっかり受け止め、イエスの生涯を隅々まで満たした神の愛を感じ取ることです。そうすることで、心を愛で満たされ、宣教の熱意に駆り立てられる聖体拝領の恵みに霊的に預かることができるでしょう。御聖体の恵みを通してすべての人が永遠の命へと導かれるよう、心を合わせて祈りましょう。

youtu.be