マザー・テレサの言葉を読む(25)御聖体のうちに


御聖体のうちに、わたしはキリストをパンの形で見ます。スラムでは、キリストを貧しい人々の心痛む姿の中に見ます。傷ついた体、子どもたち、そして死にかけた人々の中にです。だからこそ、わたしはこの仕事ができるのです。
 マザーの目に映る世界は、わたしたちが見ている世界とは少し違ったものだったようです。
 まずパンの形をした御聖体の中に、キリストを見るとマザーは言います。御聖体とは、そもそも何でしょうか。それは、カトリック信仰においてイエス・キリストの肉と血だと信じられているものです。最後の晩餐の席でイエスが、弟子たちの救いためならば自分の全てを差し出してかまわないというほどの愛を込めて「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と言ったとき、イエスの手の中にあったパンはイエスの肉に変わりました。外見はパンでも、そのすみずみまでイエスの愛が満ち溢れているからです。ブドウ酒についても同じことが言えます。外見はブドウ酒でも、イエスの愛にみちたそれはもはやイエスの血なのです。
 最後の晩餐の席で行われたのと同じことが、ミサの中で司祭の手を通して行われます。司祭と会衆が心を合わせて聖霊の恵みを願い、司祭がイエスに代わって「これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」と言うとき、神の恵みによってパンはイエスの愛に満たされたイエスの肉に変わるのです。マザーは、パンの外見ではなく、その中に満ち溢れたイエスの愛を心の目で見ていました。ですから、パンの形を通してイエスと出会うことができたのです。
 それと同じことが、スラム街で貧しい人々と出会うときにも起こりました。どれほど汚れ、傷ついていたとしても、人間の心の奥底にはイエスの愛が限りなく注がれています。たとえ本人がそのことに気づいていなかったとしても、信仰の目で見たとき、それは明らかな事実です。マザーは外見に惑わされることなく、貧しい人々の心の奥底に宿っているイエスの愛に目を向けました。マザーにとって、イエスの愛に満たされた貧しい人々の体は、イエス自身の体に他ならなかったのです。
 こうしてマザーは、聖堂でも、スラム街でもイエスと出会うことができました。だからこそ、マザーはどんなときでもイエスの愛に満たされていたのです。