バイブル・エッセイ(197)宝を手に入れるために


宝を手に入れるために
 天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。(マタイ13:44-46)
 宝が埋まった畑や高価な真珠を手に入れるために自分の全財産を手放す人たちと同じように、もし「神の国」の本当の価値を見出せば、わたしたちも全てを手放し、あらゆる手段を使ってそれを手に入れようとするに違いありません。神の国」はそれほどまでに尊いものなのだということを、このたとえ話は教えてくれます。
 そのようにして「神の国」を手に入れた人の一人が、間もなく記念日を祝う聖イグナチオです。イグナチオは宮廷に仕える兵士でしたが、30歳のとき戦いの中で瀕死の重傷を負い、長い療養生活を強いられました。療養生活をした人は皆さんわかると思いますが、そんなとき人間は「元気になったら何をしようか」ということをよく考えるものです。イグナチオは最初、兵士としての栄達やお姫様に気に入られることなどを想像しますが、多くの仲間たちの死を目の当たりにし、自身も生死の境を乗り越えた彼にとって、もはやそのような想像は何の喜びももたらしてくれませんでした。
 次にイグナチオが想像したのは、アッシジのフランシスコやドミニコのように、神のために自分の生涯を捧げることでした。この想像は、彼の心にこれまでにないほど大きな喜びをもたらしました。こうしてイグナチオは、自分の生涯を差し出すに値するほど大きな宝を見つけ出したのです。その宝を手に入れるため、イグナチオは病気が治り次第、すべてを捨てて巡礼に出る覚悟を固めていきます。
 このような大きな出来事だけでなく、イグナチオは生活のあらゆる場面において宝を手にいれるためにできる限りのことをしました。例えば、イグナチオの周りにいた人たちは、彼の口から人の悪口が出るのを聞いたことがなかったそうです。神の愛という宝を手に入れるため、どんなときでも相手の良いところを見つけ、その人と共に歩んでいこうとするのがイグナチオだったようです。
 天の宝を手に入れるためであれば、自分に与えられたすべてを差し出し、いかなる努力も惜しまない。そんなイグナチオの姿に倣いたいものです。わたしたちが懸命に宝を手にいれようとしていれば、その姿を見て、周りの人々もやがて隠された宝の価値に気づくことでしょう。 
※写真の解説…太陽をまっすぐに見上げるヒマワリの花。玉造の公園で。