バイブル・エッセイ(260)隅の親石


隅の親石
「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:33-43)
 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になる」とイエスは言います。「家を建てる者」とは、ユダヤ社会のリーダー達である祭司長や律法学者たちでしょう。「捨てられた石」とは、彼らから見捨てられ、社会の片隅に追いやられた人々だと考えられます。「神の国」という大きな家の土台になるのは、社会の中心にいる偉い人たちではなく、社会の片隅に追いやられた人々だとイエスは言うのです。
 当時のユダヤ社会のリーダーたちは、前半のたとえ話に出てくる強欲な農夫たちのように神から預かったもの、すなわちこの地上のあらゆる富や人々の魂を神に返さず、自分達のものにしようとしていました。そのような人々は、「神の国」の土台とはなりえない。むしろ、社会のかたすみに追いやられながら、神から頂いた恵みを忠実に神に返す人々、神の御旨に従って生きる人々こそが「神の国」の土台になる、とイエスは言うのです。
 ここでイエスの念頭にあったのは、おそらくイエスの声に耳を傾け、神に忠実に生きる異邦人たちやユダヤ社会の片隅に追いやられた人々だったでしょう。恥も外聞もなく病気の部下のために懸命に祈る百人隊長、娘の病気を治してもらいたい一心で「小犬でもパン屑はいただきます」とすがったお母さん、仕事や財産を置いてイエスの後に従った漁師や徴税人たち、自分のことを考えず、神の御旨に忠実に生きる彼らこそが「神の国」を支える「隅の親石」だというのです。
 そのような人たちは、現代の社会にもいます。例えば、家族を支えるため、スーパーのレジ打ちのパートに精を出すお母さん。どんなに嫌なことがあっても、愛する妻や子どもたちのために会社で頑張って働くお父さん。子どもたちを育てるために、自分のあらゆる時間を差し出すのに何のためらいもない学校の先生。都会での出世を捨てて僻地での医療に従事するお医者さん。そのように自分のことを顧みず、ただ人々の幸せを願って生きる人たちこそが、神の御旨に適って「神の国」を支える「隅の親石」になるのです。自分をつまらない者と見なし、御旨のまま神に全てをお返しする人は、「神の国」に入るだけでなく、「神の国」の土台そのものにさえなります。
 まるで世界を自分のものであるかのように見なす思い込みを捨て、謙遜な心で人々に、そして神に仕えるものになりましょう。そうすることで、この地上に「神の国」の揺るがぬ礎を築いていきましょう。
※写真の解説…ナバナ。布引ハーブ園にて。