バイブル・エッセイ(340)最初の殉教者


最初の殉教者
 ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ18:33-38)
 この聖週間に、わたしは教会の中高生たちと一緒に浦上四番崩れの殉教地、津和野を訪れました。殉教者たちの足跡をしのび、信仰の大切さを思い起こすための巡礼でした。
 殉教が偉大なことだということは誰もが分かっていますが、その意味を理解するのは現代人にとってなかなか難しいことのようです。多くの人が、何よりも大切なのは命で、死んでしまったら何も始まらないと考えます。そして、「宗教をやっている人は、その辺りのことが分からなくなってしまうから怖い」という風に考えるのです。信者の間でさえ、殉教に疑問を感じる人がいるようです。たとえ信仰を捨てても神は赦してくださるはずだから、殉教にはあまり意味がなかったと考えるのです。ですが、本当にそうなのでしょうか。殉教は無意味なことなのでしょうか。殉教の意味について、最初の殉教者であるイエス・キリストの十字架を手がかりに考えてみたいと思います。
 イエスが処刑されたとき、まだ現在のような形でのキリスト教は存在しませんでしたから、イエスを殉教者と呼ぶことに抵抗を感じる人もいるかもしれません。しかし、父なる神への愛に忠実に生き、父なる神に自分の命を捧げた人という意味で、イエスは紛れもなくキリスト教の最初の殉教者と呼んでいいでしょう。
 イエス自身も、十字架を前にして、津和野の殉教者たちと同じように信仰を捨てるよう説得を受けました。「神の子」であることを否定しさえすれば、イエスは処刑されずにすんだのです。一度信仰を捨てて母と共にガリラヤに帰り、母に孝行しながら人々に神の教えを伝えるとか、勢力をつけてまき直しを図るというような選択肢も考えられたはずです。ですが、イエスは決して信仰を捨てることがありませんでした。なぜでしょう。
 それは何より、イエスにとって信仰とは生きることそのものだったからです。神の愛なしには一日も生きられないというくらい、イエスは神と深く交わり、神の力に動かされた人でした。自分の命そのものである信仰を捨てるならば、仮に肉体は生き長らえたとしても、本当の自分、「神の子」イエスは死んでしまう。イエスはそう確信していました。イエスは、生きるために死ぬことを選んだと言ってもいいでしょう。
 また、イエスは「わたしは真理について証するために生まれ、そのためにこの世に来た」と言っています。イエスがこの世に来たのは、真理、すなわち神は愛であり、すべての人が大切な「神の子」だという真理をこの世界に証するという使命を与えられていたのです。「そのために生まれてきた」と言い切ることができるくらい、イエスにとってこの使命は明らかなことでした。そして、実際、罪人と呼ばれ、社会の片隅に追いやられた徴税人や売春婦、重い病気の人々のもとを訪れ、彼らも大切な「神の子」であることを説き続けたのです。エスと出会った人々は、自分の命の価値に気づき、喜びの中で力強く新しい人生の歩みを始めました。もしイエスがここで信仰を捨てたら、どうなったでしょう。人々はまた元の闇の中に戻り、苦しみ続ける以外になかったでしょう。彼らのためにも、イエスは信仰を捨てることが決してできなかったのです。
 信仰なしには生きられないほど神と深く一致して生き、神から与えられた使命に最後まで忠実であるために、イエスはあえて死を選びました。こうして、最初の殉教である十字架上の死が実現したのです。
 殉教者たちにも同じことが言えるでしょう。殉教者たちにとって、信仰は生きるということそのものでした。階級社会の中で差別され、貧しさの中で牛馬のように働き続けていた長崎の農民たちは、神の愛と出会って初めて自分の人生に意味を見出しました。そして、神の愛を感じ、それに感謝することでどんな逆境の中でも喜んで力強く生きていたのです。そんな彼らにとって、信仰を捨てるということは、肉体の死以上につらいことだったに違いありません。彼らは、肉体の死を選ぶことで、「神の子」として永遠に生き続ける道を選んだのです。
 もちろん、すべての人が殉教の使命を与えられているわけではありません。津和野でも、ある人々は信仰を捨てることで食料を手に入れ、その食料をかつての仲間たちのもとに運ぶことで仲間たちに貢献しました。それが彼らの使命だったのかもしれません。ですが、人々の信仰を励まし、人々を神のもとへと連れ帰る使命を与えられた人たちにとっては、信仰を捨てるという選択肢はありえなかったのです。
 イエスの十字架上での死を思い、殉教者たちの死を思うとき、殉教の意味は明らかです。もしわたしたちが殉教の意味に疑問を感じるならば、それはわたしたちが信仰を本当に生きていないからかもしれません。あるいは、神から与えられた使命に気づいていないからかもしれません。イエスの十字架上での死、殉教者たちの死をしっかりと心に刻み、信仰を生きられるように、自分の使命に最後まで忠実であることができるようにと祈りましょう。
※写真…浦上四番崩れの殉教地、津和野の真ん中を流れる錦川。