バイブル・エッセイ(480)自分自身の王になる


自分自身の王になる
 そのときピラトはイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:33-37)
「王であるキリストの主日」である今日、イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。イエスは、暴力によって支配する王ではなく、真理によって支配する王なのです。エスはまず、ご自分の心を真理で満たし、ご自分の心に真理の支配を打ち立てました。そして、神の前に正しく、清らかな心で生きたいと願う者は、みなこぞってイエスに従ったのです。エスが王であるとは、そういうことなのです。
 イエスは、どのようにして真理の支配を実現したのでしょう。公生活の始めに荒れ野で悪魔から誘惑されたとき、イエスが決して悪魔の誘惑に屈しなかったことを思い出せばわかると思います。イエスは神のみ言葉を守って悪魔の誘惑と戦い、自分自身の心を守り抜きました。心が邪悪な思いによって蹂躙されることを決してゆるさなかったのです。これこそが、王であるキリストの最初の勝利でした。空腹や荒れ野の暑さに苛まれる過酷な戦いの中で、イエスはまず自分自身の心に真理の支配、「神の国」を打ち立てたのです。
 真理に生きる人は、自分の心の中だけでなく地上にも真理を実現してゆきます。貧しい人たちが社会の片隅に追いやられて苦しんでいれば、出かけて行って「神は、そんなあなたたちこそ愛している」と告げずにはいられないし、思い上って悪事を働く人たちがいれば、その人たちをも救うために出かけて行って神の前での謙遜を説かずにいられないのです。そのような行動の結果、イエスは人々の暴力によって十字架につけられました。それは、敗北に見えますが、実は勝利でした。暴力に対して暴力で立ち向かうことによっては、決して平和が実現することはないと分かっていたので、イエスはその真理に従ったのです。もしイエスが暴力に訴えていれば、それは真理の破たんであり、せっかく始まった「神の国」はたちまち崩壊したに違いありません。
 わたしたちは、主であるイエスのしもべであると同時に、イエスと同じように王となる使命を与えられた者です。すべてのキリスト教徒は、洗礼によって神から王として生きる資格を与えられているのです(キリストの王職)。わたしたちには、自分の心の王になる力が与えられているのです。それが、罪からの解放ということの意味です。
 その支配は、一日で実現できるものではありません。悪魔の大群は、日々攻め寄せてくるからです。「わたしが絶対に正しい。あの人は間違っている」、「悪いとはわかっているけれど、このくらいはまあいいだろう」というような考え方がわたしたちの心にやって来るときこそが、決戦のときです。悪魔はわたしたちの心に怒りや憎しみを掻き立て、真理の支配を崩壊させようとしています。怒りや憎しみに捕らわれ、暴力に訴えたり、人の悪口を言ったりすればわたしたちの負けなのです。
 心に真理の支配が実現するとき、わたしたちは真理を生きる人になり、この世界に真理を実現してゆく人になります。王であるキリストのあとに従って、わたしたちも自分自身の心の王となり、地上に「神の国」を実現するために戦う王となることができるよう、心から祈りたいと思います。