バイブル・エッセイ(341)暗闇に身を置く


暗闇に身を置く
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)
 シモン・ペトロと、イエスが愛しておられた弟子、ヨハネがイエスの墓まで走ってきました。ヨハネは先に到着しましたが、入り口から「身をかがめて中をのぞいた」だけで、中には入りませんでした。しかし、後から来たペトロは墓の中に入り、そこで何が起こったかを悟ったのです。
 墓の中に入らなかったヨハネの気持ちが、わたしは少しわかる気がします。若いころに聖地を巡礼し、当時の墓の中に入ったことがあるからです。ベタニアにある、ラザロが葬られたと言われている墓です。墓の入り口はいつも閉じられていますが、向かいにあるお店の人にお願いして開けてもらうことができました。中はまるで洞窟、まるで死の世界がそこに口を開いているかのような暗黒が広がっていました。お店の人は入り口を開けると、「ゆっくり見ていきなさい」と言ってお店に戻ってしまいました。1人で墓の中に残されたわたしは、正直怖かったのですが、お店の人がつけてくれた裸電球の灯りをたよりに洞窟の中に入っていくことにしました。始めは真っ暗で何も見えなかったのですが、しばらくすると目がなれてきて足元が見えるようになり、なんとか一番奥にある祭壇にまで辿りつくことができました。
 あのときの怖さは、今でもよく覚えています。ヨハネもきっと、洞窟の中に広がる死そのもののような闇を恐れて中に入るのをためらったのでしょう。ですが、ペトロは恐れずにその暗闇の中に入り、そこに身を置きました。ペトロも暗闇の中で初めはきっと何も見えなかったはずです。ですが、しだいに闇に目が慣れてくると、「イエスの頭を包んでいた覆いが、亜麻布と同じところには置いてなく、離れた所に丸めてある」のに気づきました。どのような状況だったのかよく分からないところもありますが、ペトロはきっと、亜麻布やその布の置かれ方などを見ているうちに、そこでただごとではない何かが起こったことを悟ったのだと思います。エスは、単にどこかに移動されたのではなく、人間の世界を越えた別の世界に移された、復活の命に移されたということを、ペトロは闇の中で悟ったのです。ヨハネも中に入り、闇の中に身をおいたとき「見て、信じ」ました。イエスは、死の闇の中にはおられない。イエスは復活したということを、見て信じたのです。
 闇の中に入ることなく、入り口に立ち止まっている限り、わたしたちは闇を恐れ続けているしかありません。ですが、勇気を出して中に入り、闇に直面するとき、わたしたちはそこに存在するのが死ではなく復活であることに気づくのです。死の闇もそうでしょう。誰かが死んだという現実に直面するのを恐れているなら、わたしたちは墓の前で泣きつづけるしかありません。ですが、勇気をもって死の闇に直面するなら、そこにあるのは実は死ではなく、復活の命であることに気づくことができるのです。何かを失った喪失の闇について、すべて同じことがいえると思います。失われたものにしがみつき、喪失の現実に直面しない限り、わたしたちは泣きつづけるしかありません。ですが、喪失の闇に直面するとき、わたしたちはそこに神の恵みが宿っていることに気づくでしょう。喪失の闇は、実は新しい力、新しい命で満たされた闇なのです。
 暗闇を恐れず、その中に身を置きましょう。はじめは何も見えなかったとしても、やがてその闇を満たす復活の命に気づくことができるはずです。暗闇の中に存在するのは、死ではなく復活なのです。 
※写真…フィリピン、ルソン島北部にあるサガダ村の洞窟。