バイブル・エッセイ(954)「これはわたしの愛する子」

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「これはわたしの愛する子」

 イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコ9:2-8)

 イエスを覆った雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が響いたとマルコ福音書は伝えています。この後、イエスが捕らえられ、鞭打たれて十字架にかけられたことを考えると、この言葉はより深い意味をもって響いてきます。この言葉は、単に光り輝くイエスの権威を示すものではなく、「これから何が起こっても、服さえ剥ぎ取られ、傷だらけの姿になったとしても、この子はわたしの愛する子どもだ」ということを弟子たちに伝えるための言葉、「この子の言葉を通して、またこの子の生き方そのものを通して語られるわたしの思いを、一言漏らさずよく聞きなさい」と弟子たちに伝えるための言葉だったと考えられるのです。

 弟子たちにとって、特にペトロにとってこの言葉はとても大きな意味を持ったのではないかとわたしは思います。イエスが捕縛されたとき、他の弟子たちはみな逃げ出してしまいました。捕縛され、鞭打たれるイエスの姿を見て、「ああ、この人も結局はただの人だった」と思ったのでしょう。ですが、ペトロは、イエスとの関係を否定しながらも、イエスのそばから離れることがありませんでした。命惜しさにイエスとの関係は否定したものの、心の中ではイエスが神の子であることを確信していたからだと思います。ペトロは、雲の中から響いた声をよく覚えていて、イエスを通して語られる神の言葉を最後の瞬間まですべて聞いておきたいと望んだのです。その結果、ペトロはイエスの慈しみ深いまなざしに触れ、そのまなざしを通してすべてをゆるす神の愛を知りました。イエスの十字架と復活にも立ち会い、「ご自分の一人子さえ惜しまずに差し出すほどの神の愛」の本当の意味を知ったのです。神の愛は、たとえ自分の子どもを殺されたとしても、殺した人間たちをゆるすほどの愛。ただひたすら人間たちの幸せを願い、人間たちのために涙を流す愛だったのです。

 イエスご自身にとっても、この言葉は大きな意味を持ったことでしょう。「これはわたしの愛する子」という言葉は、たとえ真っ白な服を剥ぎ取られても、鞭打たれ、惨めな姿で十字架につけられたとしても、あなたはわたしの愛する子どもだとイエスに伝えるための言葉でもあったのです。イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言いましたが、その言葉には「あなたの子どもであるわたしをなぜ」という思いが込められていたに違いありません。神がご自分の子どもを見捨てるはずがないと確信していたからこそ、イエスは最後の瞬間まで十字架の苦しみを担うことができたのでしょう。十字架の苦しみから、復活の栄光に移されたとき、イエスは「なぜ」の答えを知りました。イエスの死は、わが子の命さえ差し出すほどの神の愛を全人類に示し、全人類を救うための死だったのです。

「これはわたしの愛する子、これに聞け」という言葉を、わたしたちもしっかり心に刻みたいと思います。四旬節のあいだに読まれる福音は、イエスの十字架と死を告げるものばかりで、聞くのが辛いかもしれません。ですが、その苦しみの中にこそ、神の究極の愛、人間の弱さ、不完全さ、罪深さをすべて包み込む広大無辺な神の愛が示されているのです。神の子によって語られたすべてのメッセージを聞き取ることができるよう、心をあわせて共に祈りましょう。

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