バイブル・エッセイ(448)『墓の扉は開かれている』


『墓の扉は開かれている』 
 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)
 復活の日の朝早く、ペトロとヨハネが墓に向かって走って行きます。ヨハネが先に着きましたが、まだ半信半疑だったヨハネは、入り口から中を覗いただけで中には入りませんでした。ペトロの後について墓の中に入ったとき、ヨハネは初めて「見て信じた」のです。エスの復活を信じるためには、墓の中に入り、そこにイエスがいないこと。墓の中には闇しかないことを見極める必要があるようです。
 墓を、「古い自分」と考えると分かりやすいと思います。富や名誉、権力などに心を惹かれて生きる「古い自分」。その心の中には、どこを探してもイエスはいません。そこにあるのは、ただ恐れや不安、嫉妬や憎しみの闇だけです。私利私欲のためだけに生き、たくさんのものに執着すればするほど、闇は濃くなっていきます。「古い自分」という墓の闇の中をさまよい歩いたことがある人には、そのことがはっきり分かるはずです。
 では、イエスはどこにいるのでしょう。わたしたちがイエスと出会うのは、「古い自分」の闇の中から、外に向かって一歩を踏み出したときです。エスは、墓の外で、わたしたちが出てくるのを待っておられます。相手の中に生きておられるイエスを信じ、嫌いな相手に話しかけてみるとき、無理だと思っていた和解が実現するとき、わたしたちの心に復活の光が射しこんできます。そこに生まれた愛の中に、復活したキリストがおられるのです。これまで無視していた人の苦しみに目を向け、その人のために手を差し伸べるとき、これまで他人だった人が友だちになるとき、わたしたちの心に復活の光が射しこんできます。そこに生まれた愛の中に、復活したキリストがおられるのです。
 「どこを探してもイエスがいない。」そんな気持ちになったときには、もしかすると「古い自分」の墓の中に迷い込んでしまっているのかもしれません。私利私欲や執着に惑わされ、墓の中にさまよいこむとき、わたしたちはイエスの姿を見失ってしまうのです。
 「古い自分」という墓の中に迷い込んでしまったことに気づいたら、闇の外に向かって一歩を踏み出すことが大切です。さまざまな執着を手放し、すべてを神に委ねれば、わたしたちの心に安らぎの光が射しこみ始めるでしょう。神の前で自分が取るに足りない罪びとであることを思い出せば、わたしたちの心の中にゆるしと和解の光が射しこみ始めるでしょう。墓の扉はすでに開いています。イエスが開いて下さったのです。わたしたちは死の闇から抜け出し、復活の光に向かって一歩を踏み出すだけでいいのです。
 「古い自分」の中には闇しかないことを見たわたしたち、闇から解放されてイエス・キリストのまばゆい光を見たわたしたちは、「もう二度と墓の中に戻らない」と固く決心したいと思います。墓の中には、絶望の闇が広がり、「古い自分」の腐ってゆく臭いがただよっているだけです。エスの後についてまばゆい光の中を歩み続けられるように、復活の命を生きることができるように、心から神様に願いましょう。