バイブル・エッセイ(342)2つの平和


2つの平和
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:19-29)
 「あなたがたに平和があるように」と、繰り返し弟子たちに語りかけるイエスの声が心に響きます。苦しみによって乱れた弟子たちの心に、弟子たちの間に生じた分裂に平和をもたらすため、イエスはやって来られたのです。
 復活の日の夕方、弟子たちの前に姿を見せたイエス「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに語りかけました。このとき弟子たちの心にあった苦しみ、それは他ならぬイエスを見捨て、逃げ出してしまったことへの自責の念だっただろうと思います。「なぜあのとき逃げてしまったのか」、「一番大切な方を裏切ってしまった自分たちは一体これからどうなるのか」、弟子たちはそのように考えて暗い顔をしていたに違いありません。そんな弟子たちに向かってイエス「あなたがたに平和があるように」と語りかけたのです。それは「あなたたちの罪はゆるされた。ありのままの弱いあなたたち、罪深いあなたたちをわたしは愛している」というメッセージに他なりませんでした。
 ところがこのとき、部屋の中に十二使徒の1人、トマスの姿がありませんでした。きっと何か外に用事があったのでしょう。それを果たして部屋に戻ってくると中から仲間たちの喜びに満ちた声が聞こえてきます。何事かと中に入ってみると、なんと自分のいない間にイエスが現れ、他の弟子たちを祝福したというではありませんか。この状況で「そうか、よかったな」と一緒に喜べる人はあまりいないでしょう。トマスが「なぜ自分の罪だけはゆるされなかったのか。そんなことはありえない」と思ったとしても無理はありません。弟子たちの間に、きまずい雰囲気が漂い始めます。一番大きな喜びである復活をめぐって、それを認める弟子たちとトマスの間に分裂が起こってしまったのです。
 8日の後、そんな弟子たちのあいだに、再びイエスが現れ「あなたがたに平和があるように」と語りかけました。この呼びかけは、トマスに向かって「仲間と自分を比べてひがむ必要はない。わたしはあなたを愛している」と語りかけるメッセージであり、弟子たちに向かって「和解して、平和の中を歩み出しなさい」と語りかけるメッセージだったと言っていいでしょう。エスの愛に包まれながらトマスは仲間たちと和解し、十字架と復活の喜びを地の果てまで伝える者になっていきます。
 「あなたがたに平和があるように。」この呼びかけは、わたしたちの日常生活の中にも響き渡ります。ここに描かれた弟子たちと同じような心の状態になって、苦しみの中にいるわたしたちに向かって、イエスは今も優しく「あなたがたに平和があるように」と呼びかけ続けているのです。
 何か大きな過ちを犯してしまったとき、わたしたちはもう自分で自分を信じることができなくなります。「こんな間違いをしでかしてしまった自分はもうだめだ」と考えて、自暴自棄になってしまうのです。ですがエスは、そんなわたしたちに「ありのままの弱いあなた、罪深いあなたをわたしは愛している」と語りかけます。
 人と比べて自分がみじめな状況に置かれているように思えるとき、わたしたちは神に背を向けてしまいがちです。「なぜわたしだけがこんな目にあわなければいけないんだ」と考えて、神の愛を信じられなくなるのです。ですがイエスは、そんなわたしたちに「仲間と自分を比べてひがむ必要はない。わたしはあなたを愛している」と語りかけて下さるのです。自分も確かに愛されている、そのことを実感するとき、わたしたちは同じように豊かな愛の恵みを受けている仲間たちと共に喜び、共に力強く福音を証することができるでしょう。
 目に見えないイエスの存在を感じ取り、耳に聞こえないイエスの声の響きに耳を傾けましょう。イエスはどんなときでもわたしたちの隣にいて、「あなたがたに平和があるように」と語りかけておられます。「信じない者ではなく、信じる者」になりましょう。
※写真…土手の斜面で花を咲かせたフキノトウ