バイブル・エッセイ(441)『それでこそわたしの子』


『それでこそわたしの子』
 イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコ9:2-8)
 イエスが高い山に登ると、雲がイエスを覆い「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が天から響きました。これは、弟子たちに対する宣言であると同時に、イエスへの激励の言葉だと言っていいでしょう。父なる神様が、「それでこそ、わたしの息子だ」とイエスに言っておられるのです。
 主の洗礼の場面でも、「これはわたしの愛する子」という、同じ言葉が天から響きました。主の洗礼は、その辺りで一番低い場所を流れるヨルダン川で行われ、御変容は、その辺りで一番高い山の上で起こったという対比が興味深いと思います。洗礼が低い場所で行われたのは、イエスの謙遜を象徴しているように思われます。神の子でありながら罪人たちのもとに降り、その列に加わったイエスの謙遜さを見て、父なる神は「これはわたしの愛する子」と言われたのです。罪人を救うためならば、あえて罪人たちと同じところまで下りてゆく。「それでこそ、わたしの息子だ」ということです。
 では、なぜ御変容は高い山の上で起こったのでしょう。山に登るという行為は、苦しみを乗り越えて高みを目指すイエスの姿を象徴しているように思えます。どんな苦しみがあったとしても、山の上で神様が待っていると信じて乗り越えてゆく。これから起こる受難の苦しみさえも乗り越え、神の国に向かって進んでゆく。そのようなイエスの姿を見て、父なる神は「それでこそ、わたしの息子だ」と言ったのではないでしょうか。
 ヨルダン川では天から鳩が降ってきたが、山の上では雲がイエスたちを覆ったということも興味深いことです。わたしたちの心が遜っているとき、聖霊は天から下ってきてわたしたちの心を優しく包み込みます。苦しみを乗り越え、自分自身を乗り越えて高みに立つとき、わたしたちは神秘の雲に覆われ、聖霊で心を満たされるのです。聖霊に満たされた人の顔は、すがすがしい喜びの光を放ちます。
 この二つの場面から言えるのは、貧しい人々や罪人たちに手を差し伸べるために自分を低くすること、あらゆる苦しみを乗り越え、神の国の高みを目指して進んでゆくことの二つが、「神の子」の特徴だということです。この二つの特徴を備えたとき、神様はわたしたちを見て「それでこそ、わたしの息子、娘だ」と言って下さるのです。そして、「神の子」としてふさわしく生きる者には、聖霊が惜しみなく注がれるのです。
 「神の子」として生きるために、自分の罪深さを知る謙遜さと、それでも高みを目指して進んでゆく心を持ちたいと思います。自分の弱さを乗り越えながら、「神の国」へと続く山道を進んでゆくのは苦しいことですが、わたしたちの隣にはいつでもイエスがいてくださいます。わたしたちが負いきれない苦しみはイエスが背負い、わたしたちが倒れればイエスが手を差し伸べて起こして下さるのです。エスと共に苦しみを乗り越え、「神の国」の高みを目指して進んでゆきましょう。