バイブル・エッセイ(806)愛という言葉


愛という言葉
 旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒2:1-11)
 聖霊が降ると、弟子たちはさまざまな国の言葉で語りだし、諸国から集まった人々は「彼らが、わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言って驚いたと書かれています。バベルの塔の出来事によって生まれた言葉の壁が、聖霊によって崩された。これからは、言葉の壁に邪魔されることなく、互いに理解し、助け合うことができる。そんな時代の到来を告げる出来事と言っていいでしょう。聖霊降臨の出来事は、現代にも実現しています。急にいま、英語やフランス語、中国語を話せるようにはならいないと思いますが、わたしたちにはあらゆる言葉の壁を乗り越えてゆくことができる、言葉の中の言葉、「神のみことば」、イエス・キリストが与えられました。イエスが語ったように語れば、わたしたちはすべての人に神の愛を伝えることができるのです。
 イエスは、言葉だけで語ったのではありません。貧しい人たち、社会の片隅に追いやられた人たちの苦しみに寄り添う、生き方そのものを通してイエスは語ったのです。十字架につけられて死んでゆく姿によって、栄光のうちに復活した姿によって、イエスは語ったのです。人々の苦しみに寄り添い、必要とあれば自分の命でさえ人々のために差し出すその生き様こそが、どんな言葉よりも力強く、雄弁なイエスの説教だったと言っていいでしょう。イエスは、あらゆる言葉の壁を乗り越える力を持った本当の言葉、「愛という言葉」で語ったのです。
 何より大切なのは、相手の苦しみに寄り添うことだろうと思います。神が人間の苦しみに寄り添うことこそ、福音の本質だからです。問われているのは、愛について語ることができるかどうかではなく、わたしたちの心に本当に愛が宿っているかどうかなのです。例えば、病気や事故、家族のトラブルなどで苦しんでいる人たちに、「だいじょうぶ。神様は乗り越えられない試練をお与えにならないから」と言ったとしましょう。もし言葉に愛がこもっていないなら、この言葉は相手を突き放す言葉になります。言われた人は、「この人は、わたしがどれだけ苦しいかちっともわかっていない。だからキリスト教は嫌いだ」と思うでしょう。大切なのは、そのような言葉がけをする前に、どれだけ相手の苦しみをしっかりと受け止めたかなのです。一緒に涙を流しながら相手の言葉を聞き、相手の手をしっかりと握り、そのようなことがあって最後の最後に言葉が出てくるときにこそ、愛のぬくもりの中で語られたときにこそ、言葉は意味を持つのです。
 いろいろな言葉を覚えるのも大切ですが、その前に何よりも大切な「愛という言葉」を覚えたいと思います。わたしたちの心が聖霊によって満たされているなら、神の愛によって燃え上がっているなら、その言葉は自然とわたしたちからあふれ出すでしょう。あらゆる隔たりの壁を乗り越えてゆくために、「愛という言葉」の恵みを願って祈りましょう。