バイブル・エッセイ(475)喜んで仕え、喜んで献げる


喜んで仕え、喜んで献げる
 エスは十二人を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)

「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」とイエスは言います。本当は仕えたくなくても、偉くなりたいなら仕えるべきだということではありません。仕えることが自分の使命だと知り、喜んで仕える者こそ、神の前に偉大な者だということです。
 「偉くなりたい者は」と言われていますが、イエスが仲間内で偉くなることを勧めているのでないことは明らかです。エスが言う「偉くなる」とは、他の仲間から尊敬されるということではなく、神様の前で偉くなるということだと考えるべきでしょう。神様の僕として最も偉いもの、すぐれた者になりたいなら、仕える者になりなさいということです。
 どんなに仕えたとしても、偉くなるためにしているだけで、奉仕自体は嫌々しているというのではよい僕ではありません。神様から与えられた使命には必ず意味があると信じ、喜んで丁寧に仕える僕こそがよい僕なのです。嫌々奉仕する僕は、周りの人を嫌な気分にしますが、喜んで奉仕する僕は、周りの人を幸せにします。大切なのは、奉仕したという事実よりも、奉仕することで相手を幸せにしたということです。神の僕に求められているのは、喜んで奉仕することによって、神の愛を相手に届けることなのです。
 イエスは十字架上で命を献げましたが、見返りを求めてしたわけではありません。自分の命を献げることが「多くの人の身代金」になると確信し、喜んで献げたのです。自分が十字架にかかることでみんなが幸せになるなら、わたしの命などどうなったって構わないという気持ちで、喜んでささげたのです。
 わたしたちは、仕えたり、献げたりするとき、つい嫌々、不承不承していることが多いように思います。そのような態度で奉仕された人は、嫌な気分になるに違いありません。いかにも不機嫌な顔ですることによって、わたしたちはせっかくの奉仕を台無しにしてしまうのです。奉仕は、喜んでするからこそ意味があります。よい僕となるからこそ、神から愛され、周りの人たちからも愛されるようになり、自分自身も自分の人生に意味を感じて幸せになることができるのです。
 嫌々することで周りの人たちに不満をぶつけても、それで仕事が楽になるわけではありません。むしろ、苦しさは自分一人で引き受け、みんなの幸せのために喜んで奉仕する。それがキリストの僕の取るべき態度でしょう。喜んで奉仕するよい僕になれるよう、神様の助けを願いましょう。