バイブル・エッセイ(555)「喜んで仕える」


「喜んで仕える」
 エスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」、とイエスは言います。「マルタ」を自分の名前に置き換えて考えてみるといいでしょう。どきっとする人も多いのではないでしょうか。これは、わたしたちすべてに向けられた言葉なのです。わたしたちは、日々の生活の中で多くのことに悩み、心を乱していますが、必要なことはただ一つだけなのです。
 わたしたちは日々、「あれもしなければ、これもしなければ」とたくさんのことに追われて生活しています。家族のため、社会のため、教会のためにできる限りのことをしたいという気持ちは尊いものです。ですが、そのために失敗を恐れたり、周りの人たちを自分の思った通り動かそうとして苛立ったり、自分の思った通りに動いてくれない人たちに腹を立てたりしたら元も子もありません。愛のために働いているはずなのに、肝心の愛を見失ってしまっては意味がないのです。
 愛のために働いている人には、必ず喜びがあります。愛のために働いている人が、いつも暗い顔で、あたりにぴりぴりした緊張感を漂わせているというのはおかしいのです。「多くのことに思い悩み、心を乱す」なら、そこには喜びがなく、したがって愛もありません。マルタは、イエスのためにたくさんのことをしようとしていますが、それは愛でなく、姉としての義務感によるものなのかもしれません。あるいは、「自分はよいしもべ」ということをイエスにアピールするため、つまり自分自身のためにしているのかもしれません。
 エスを喜ばせるために必要なのは、ただ一つ、真実の愛だけです。どんなにすばらしい食事を準備したとしても、食事に真心がこもっていないなら、イエスは決して喜びません。マリアは、その意味で「よい方を選んだ」と言えます。形だけの愛ではなく、真実の愛を差し出してイエスをお迎えしたからです。もちろん、何もしないで、ただイエスの言葉だけを聴いていればよいというわけではありません。水や食事を準備する人も必要です。ですが、その奉仕には、愛がこもっていなければなりません。もし愛がないなら、どんなにすばらしいおもてなしをしたとしても、イエスは決して喜ばないのです。
 順番から言えば、最初に必要なのはイエスの前に腰を下ろし、イエスの声に耳を傾けることでしょう。「あれもしなければ、これもしなければ」という自分の思いを一度手放し、イエスの前に腰を下ろすのです。イエスの愛に触れ、イエスの痛みや苦しみを感じ取るのです。そうすることで、イエスのために何をすればよいかが分かります。そして、イエスのために何かをせずにいられなくなるのです。「あれもしなければ、これもしなければ」が、「あれもしたい、これもしたい」に変わるのです。「どんなに苦しかったとしても、イエスのためなら喜んでする。そうせずにはいられない」、それこそが真実の愛です。
 イエスの前に腰をおろしても、心に様々な思いを抱えこんで上の空ならば意味がありません。イエスの愛に触れるためには、心に抱え込んだ荷物を下ろすことが大切です。喜んで仕える人になれるよう、イエスの前に腰をおろし、すべての重荷を手放してイエスの愛に触れる恵みを願いましょう。