バイブル・エッセイ(382)「聖別された者」


「聖別された者」
 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:22-32)
 今日は「主の奉献」、幼子イエスが神に献げられたことを記念する日ですから、奉献ということの意味を考えてみたいと思います。そもそも奉献とはどういうことなのでしょう。旧約の時代にアブラハムがイサクを献げようとしたように、イエスの命をいけにえとして献げるということではありません。イエスを「聖別」していただき、そのしるしとしていけにえを献げるということです。では、「聖別」とはどういうことでしょう。それは、神様のために取り分けるということ。食事の一部を神様のために取り分けてお献げするのと同じように、その人の人生を人間のためではなく神様のために取り分けるということです。ですから、聖別された人は、自分のためではなく、神のために生きることになります。
 自分のために生きている人と、神のために生きている人には、はっきりした違いがあります。自分のために生きている人は、何をするか決めるとき、まず他人の目にそれがどう映るかを考え、自分にとって得な方を選びます。ですが、神のために生きている人は、まず神の目にそれがどう映るかを考え、神が喜ぶ方を選ぶのです。これが第一の根本的な違いです。そこから、以下のような違いが生まれてきます。①自分のために生きている人は、人から何か嫌なことをされたとき、チャンスがあれば復讐しようとします。悪口を言ったり、よくない噂を広めたり、相手の足を引っ張るようなことをするのです。それに対して、神のために生きている人は、何をされても相手をゆるそうとします。復讐するよりむしろ相手のために祈り、相手の救いを願うのです。また、➁自分のために生きている人は、相手を利用することばかりを考えます。相手がどれだけ自分の役に立つかを考え、それによって相手の価値を判断するのです。それに対して、神のために生きている人は、相手から利用されることだけを考えています。どうしたら相手の役に立てるかを考え、どれだけ役に立てたかで、相手ではなく自分の価値を判断するのです。さらに、③自分のために生きている人は、できるだけ自分を大きく、偉く見せようとします。地位や学歴、財産、人脈などをちらつかせて、自分を尊敬させようとするのです。それに対して、神のために生きてる人は、できるだけ神を大きく、偉く見せようとします。そのために、自分などはまったくとるに足りないものだと心の底から言うのです。自分のために生きる人は、自分を喜ばせることだけを考え、復讐し、利用し、尊大に振る舞います。それに対して、神のために生きる人は、神を喜ばせることだけを考え、ゆるし、仕え、謙遜に振る舞うのです。
 教会は本来、イエスと共に聖別された者の集まりだということを思い出したいと思います。教会は、世間から取り分けられた人、自分のためではなく神のために生きることを決心した人たちの集まりなのです。ですから、教会に来た人たちは、信徒たちがただ神様を喜ばせることだけを考えていること、何をされてもあっけなくゆるしてしまうこと、決して復讐など考えないこと、相手を利用することではなく奉仕することだけを考えていること、偉そうに振る舞う人が誰もいないことに驚くのです。「なぜこの人たちはこんなにお人よしなんだろう。こんなにも、世間の人たちと違うのだろう」と思うのです。それこそが、教会が聖別された者の集まりであることのしるしです。自分のことしか考えないぎすぎすした世間に疲れて教会にやって来た人たち、「異邦人」たちは、このしるしの中に救いを見出だします。
  ただ、残念ながら、教会にやって来た人がそう感じてくれるとは限りません。教会の中にまでエゴイズムや、妬み、争い、利己主義が入り込んでいることを見て、がっかりする人もいます。世間と同じで、まったく「取り分けられ」ていないことにがっかりするのです。そんなことが起こらないように、この「主の奉献」のときにもう一度、聖別された者、神のために生きるものとしての決意を固め、その決意を生きるための勇気と力を神に願いたいと思います。
※写真…朝日を浴びた、カトリック六甲教会の鐘楼。