バイブル・エッセイ(484)信じられる幸せ


信じられる幸せ
 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と、エリザベトがマリアを祝福します。挨拶するマリアの声に、喜びがあふれていたに違いありません。「救いが実現するまで幸せになれない訳ではなく、救いが実現すると信じるだけでわたしたちは幸せになれる。エリザベトの証言は、そのことをはっきりと表しています。
 渡辺和子さんの本のタイトルにもなった「置かれた場所で咲きないさい」という詩があります。この詩の本来の意味は、「神があなたを植えた場所で咲きなさい」ということです。この場所が神様の選んだ場所であり、この場所で咲くことが自分の幸せだと信じられるかどうかにすべてがかかっていると言っていいでしょう。もし神が植えた場所だと信じられないなら、「他にもっといい場所があるのではないか」と辺りをきょろきょろしたり、「こんな場所にいるはずではなかった」と自分の運命を嘆いたりすることになります。それでは決して幸せになることができません。ここが神から与えられた場所だと信じ、そこで自分が咲かせるべき花を咲かせようと全力を尽くすとき、初めてわたしたちは幸せになるのです。もし辛い試練が続いたとしても、自分の場所はこの場所以外にないと信じていれば頑張ることができるし、置かれた場所で、周りの人たちのために花を咲かせることに心から満足できるようになるのです。置かれた場所で幸せになれるかどうかは、その場所が神から与えられた場所と信じられるかどうかにかかっているのです。
 宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』の中にこんな言葉があります。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうに、どんなつらいことでも、それがただしい道を進む中での出来事なら、峠の上りも下りもみんな、本当の幸福に近づく一足ずつですから。」
 どんなにつらい出来事があったとしても、それが不幸かどうかはわかりません。もしいま歩いている道が幸せに続く唯一の道であり、味わっている不幸が幸せになるために神様が与えた試練だとするならば、その試練を乗り越えることは幸せに続く一歩なのです。そうだとすれば、果たしてその苦しみは不幸だと言えるでしょうか。賢治はわたしたちにそう問いかけています。賢治は極めて熱心な仏教徒でしたが、この考え方はキリスト教の信仰にとても近いものがあるように思います。
 キリスト教の信仰は、この道は必ず救いに続いているという希望を与えてくれます。そして、その希望はわたしたちにあらゆる試練を乗り越える力を与えてくれるのです。キリストの救いは、そこにあると言っていいでしょう。キリスト教を信じれば、すべての苦しみが消えるというわけではありません。急に給料が上がったり、嫌な奴が回心したり、病気が治ったりするということではないのです。救いは必ず実現すると信じることで、あらゆる苦しみを乗り越えられるようになる。それこそがキリスト教の救いです。この道は必ず幸せに通じていると信じられれば、苦しみさえもやがて実現する幸せの一部として受け入れられる。それこそがキリスト教の救いなのです。キリスト教は苦しみをなくす御利益の宗教ではなく、あらゆる苦しみを乗り越える力を与えてくれる宗教なのです。
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」というエリザベトの言葉を、しっかりと胸に刻みたいと思います。信じるならば、わたしたちはいまここで、この瞬間から幸せになることができるのです。信じるための勇気と力を、神に願いましょう。