バイブル・エッセイ(1118)すべてを委ねる信仰

すべてを委ねる信仰

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-38)

 天使のお告げを受けたマリアが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答える場面が読まれました。結婚もしていないのに身ごもるということ、自分の子どもがダビデ家の王座を継ぐということ、いずれにしても自分の理解をはるかに越えている。でも、神さまには必ず、自分の理解が及ばないほど深いお考えがあるはずだから、すべてを神さまの手に委ねよう。マリアは、そう決心したのです。このマリアの言葉こそ、わたしたちが受け継ぐべき信仰の宝と呼んでいいでしょう。
 当時の社会の中で、未婚の女性が子どもを宿すということは、大きな罪と考えられていました。もし見つかれば、死刑になってもおかしくなかったのです。マリアのこの言葉には、自分の命さえ神さまの手に委ねるという意味が込められています。マリアは、この世界に救いをもたらすためならば、自分の命さえ犠牲にしてもかまわないと思っていたのです。
 この信仰は、息子のイエスにもしっかりと継承されました。イエスは、十字架につけられる前にゲツセマネの園で、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と祈りました。自分としては十字架の苦しみという杯を飲みたくない。でも、神さまには必ず、自分の理解が及ばないほど深いお考えがあるに違いないから、神さまの手にすべてを委ねよう。イエスは、そう決心したのです。この決心は、マリアの決心とまったく同じ信仰によるものだといってよいでしょう。神さまのみ旨を信じ、すべてを神さまの手に委ねて生きる。その信仰を、イエスは、聖母マリアからしっかりと受け継いだのです。
マリアの信仰は、救い主をこの地上にもたらし、マリアから引き継がれたイエスの信仰は、人類の救いを完成しました。わたしたちがマリア、イエスから何かを引き継ぐとすれば、それはこの信仰を置いて他にないでしょう。
 現代の世界では、まったく思いがけないこと。なぜこんなことが起こるのかと問わざるを得ないことが、次々と起こっています。今年は特に、イエスが生まれたイスラエルで戦争が起こり、赤ん坊や子どもたちが次々と犠牲になっていく中でのクリスマスとなりました。「こんな状況の中でクリスマスを祝っていいのか」と思う方も多いかと思います。今年のクリスマスは、イエスが十字架に付けられ、無残に殺されるのを目撃したマリアの苦しみ、そしてイエス御自身の苦しみを味わいながら迎えるクリスマスといっていいでしょう。そのひどい苦しみの中で、マリアは、そしてイエスは、すべてを神さまの手に委ねて祈り続けました。わたしたちも、あきらめることなく祈り続けたいと思います。世界中のすべての人が、特に聖地で暮らす人々が、一日も早く平和な生活を取り戻すことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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