バイブル・エッセイ(502)イエスの愛を証する


エスの愛を証する
 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:31-35)
「互いに愛し合うならば、あなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは言います。エスが愛したように、互いに愛し合うこと。イエスと似たものになることによってこそ、わたしたちは自分がイエスの弟子であることを証できるのです。「自分はイエスの弟子だ」と威張るけれど、自己主張をするばかりで愛を実践しないなら、誰もその人のことをイエスの本物の弟子だとは思わないでしょう。
 先日、熊本地震の被災地に支援物資を届けに行ったときのことです。わたしたちが熊本YMCAに到着したとき、ちょうど各避難所の責任者が集まって今後の対応について話し合う会議が始まるところでした。「せっかくだから、開会祈祷をお願いします」と、わたしは始めの祈りを依頼されました。このような状況で、部外者のわたしが何を祈ればよいのかと迷いましたが、祈りの言葉は自然と口をついて出てきました。「この地震によってたくさんの方々が被害を受け、先の見えない不安の中で苦しんでおられます。このようなときだからこそ、支援活動を通してキリストの愛を輝かせることができますように」。それは、わたしの心からの言葉でした。このようなときにこそ、人々はイエスの愛を必要としているのです。このようなときにこそ、イエスの愛を実践し、人々にイエスの愛を届けることができるかどうか、キリスト教徒の真価が問われているのです。
 フランシスコ教皇がたびたび言っておられるように、神の愛を最も雄弁に語る言葉は、わたしたちの行動です。愛についてたくさんの知識を持ち、理路整然と説教しても、それだけで神の愛を伝えることはできません。その人の言葉の中に確かな愛が宿っているとき、その人が目の前にいる相手を確かに愛しているとき、初めて愛が伝わるのです。本当に愛しているのなら、仮に言葉がなかったとしても、その人の真剣なまなざしや表情が雄弁に愛を語るでしょう。日本に来たばかりの宣教師は、日本語を話すことができませんが、神の愛ゆえに国を離れてやって来た宣教師の生き方そのものが、どんな言葉よりも雄弁に神の愛を語っています。
 震災の現場だけではありません。いま、日本の社会は相次ぐ自然災害や長引く経済の悪化などによって、不安の闇に覆われようとしています。いまこそ、キリスト教徒らしく、神の愛を生きるべきときです。キリストの愛を、燦然と輝かせるべきときです。わたしたちの顔は、イエス・キリストと出会った喜びに輝いているでしょうか。わたしたちの心は、苦しんでいる人たちのことを思う熱い愛に燃え上がっているでしょうか。イエスの愛を実践することで、わたしたちが確かにイエスの弟子であることを証することができるように祈りましょう。