バイブル・エッセイ(1020)この上ない愛

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この上ない愛

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 受難のときを前に、イエスは「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とヨハネ福音書は記しています。これは、ヨハネが後から振り返って、「いまから思えば、わたしたちの足を洗ってくれたあの夜の出来事、あれこそがイエスの愛の極みだったのだ」と気づいたということでしょう。ヨハネの心にそれほどまでの印象を残した、弟子たちの足を洗うという出来事。それは、いったいどんな出来事だったのでしょう。

 簡単に言えば、弟子たちの足を洗うということは、あるがままの弟子たちを受け入れ、その弟子たちを愛するということだと思います。しかし、それは口で言うほど簡単なことではなかったはずです。なぜなら、イエスはこのとき、数年間に渡る弟子たちとの関わりの中で、弟子たちの心の中に何があるかよく知っていたからです。イエスが足を洗った弟子たちの中には、ユダもいました。これから自分を裏切り、敵の手に渡そうとしている相手を、果してあるがままに受け入れることができるでしょうか。そんな相手に、喜んで奉仕することができるでしょうか。他の弟子たちについても、ほとんど同じことが言えます。自分を見捨てて逃げ出し、命惜しさに「あんな人は知らない」とさえ口走るような相手を、果してあるがままに受け入れることができるでしょうか。それは、ほとんど不可能と思えるくらい難しいと思います。

 しかし、イエスはそれをしました。やがて自分を見捨てて逃げ去る弟子たちの足を一人ひとり丁寧に洗い、自分を裏切るユダの足さえ丁寧に洗ったのです。ここに、ヨハネが「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」というイエスの愛があります。イエスは弟子たちのことを隅々まで知り、その弱さや醜さも含めてあるがままに受け入れたのです。そんな弟子たちのために、最後に何かしてあげずにはいられない。そう思って弟子たちの足を洗ったのです。小さな子どもへの愛情を、「目に入れても痛くない」ほどの愛と表現することがありますが、このときのイエスの弟子たちへの愛は、そのようなものだったかもしれません。相手にどんな弱さや醜さがあったとしても、そんな弟子たちだからこそ愛さずにいられない。この弟子たちのために、自分の命を差し出しても構わない。弟子たちの足を洗うという行動の中には、イエスのそれほどの愛が込められていたのです。すべてが終わり、イエスが十字架につけられた後、弟子たちはその愛に気づきました。イエスが、こんな自分たちを「この上なく愛し抜いて」くださったことに気づいたのです。

 弟子たちの足を洗い終わった後、イエスは、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言いました。その言葉の本当の意味も、弟子たちは後から知ることになります。互いの足を洗うとは、単に互いに奉仕するということではなく、相手の弱さを知り抜いた上で、それでも相手を受け入れるということであり、そんな相手のために自分を喜んで差し出すということなのです。イエスの模範にならい、わたしたちもそのような愛で互いに愛し合うことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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