バイブル・エッセイ(776)墓から抜け出す


墓から抜け出す
 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』 確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28:1-10)
 イエスを葬ったはずの墓が、空になっていたという話が読まれました。「主が墓から取り去られました」と婦人たちは言いましたが、人間の手によって運び出されたわけではありません。イエスは、ご自身の力によって復活し、墓から抜け出したのです。復活とは、墓の暗闇から抜け出し、まばゆい光の中を歩むということ。執着や恐れ、怒りなどが作り出す死の闇から抜け出し、愛の光の中を生きるということでしょう。
 何かへの執着は、神様の愛の光を遮り、わたしたちの心に闇を作り出します。例えば、ショーウィンドーに飾られたきれいな服を見て、どうしてもその服が欲しくなるというようなことがあります。そんなとき、わたしたちは「あれが欲しい。何がなんでも手に入れたい」という気持ちに取り憑かれ、他のことが見えなくなります。家族が別のものを必要としていること、服が欲しくても買えない貧しい人たちのこと、それが自分にとって本当に必要なものなのか、そういったことはすべて忘れて、ただ自分の欲望を満たすことだけを考え始めるのです。これが、執着の生み出す闇です。
 この闇から抜け出すための唯一の方法、それは執着を手放し、神様に委ねることです。「神様、わたしはいま執着に囚えられ、闇の中にいます。わたしにとって必要なものを、あなたが与えて下さい」と祈るとき、わたしたちの目は開かれ、神の愛の光、復活の光がわたしたちの心を照らすのです。
 恐れも、神様の愛の光を遮り、わたしたちの心に闇を作り出します。「ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう」という恐れにとらわれると、将来への希望の光が見えなくなってしまうのです。ここから一歩を踏み出せば、確かに辛いことや苦しいこともたくさんあるかもしれません。ですが、神様はわたしたちのために、それを乗り越えるための恵みも十分に準備してくださっているのです。恵みの方が多いと言ってもいいくらいです。恐れは、その恵みを見えなくしてしまいます。それが、恐れの生み出す闇です。
 この闇から抜け出す唯一の方法、それは神様を信頼して、自分の将来を神様の手に委ねることです。「あなたは、どんなときでもわたしにとって一番いい道を準備して下さいます。わたしの人生をあなたの手に委ねます」と祈るとき、わたしたちの目は開かれ、神の愛の光、復活の光がわたしたちの心を照らします。
 怒りが神様の愛の光を遮ることも確かでしょう。「あんな人は、絶対にゆるせない」という怒りにとらわれると、その人も大切な神様の子どもだということが見えなくなってしまうのです。どんなに憎い相手であっても、その人も神様の愛の中から生まれてきた神様の子ども。私達を救いたいのと同じくらい、神様はその人も救いたいと望んでおられるのです。怒りは、その神様の思いを見えなくしてしまいます。それが、怒りの生み出す闇です。
 この闇から抜け出す唯一の方法、それは相手を裁くのをやめ、神様の手に委ねることです。「わたしも、この人も、不完全な人間に過ぎません。裁きはあなたの手に委ねます」と祈るとき、わたしたちの目は開かれ、神の愛の光、復活の光がわたしたちの心を照らします。
 死の闇から抜け出すための唯一の方法は、神様への委ねだと言っていいでしょう。執着を、恐れを、怒りを、神様の手に委ねるとき、わたしたちは執着や恐れ、怒りが生み出す闇の中から抜け出し、復活の光の中を歩むことができます。すべてを神様の手に委ね、神様の愛の光の中を、光の子として歩んで行けるよう祈りましょう。