バイブル・エッセイ(1137)石を転がす力

石を転がす力

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-7)

 マグダラのマリアや弟子たちがイエスの葬られた墓に行ってみると、墓は空だったという話は、イエスの復活の証としてすべての福音書で語られています。それぞれ少しずつ内容が違いますが、マルコ福音書には、イエスの墓の入り口に置かれた石について「石は非常に大きかった」という記述があります。イエスを墓の闇の中に閉じ込めるために置かれた石は、とても大きかったのです。しかし、その石でさえイエスを閉じ込めることはできませんでした。人間が置いたその石は、すでに脇に転がされていたのです。
 人間が置いた石によって、闇の中に閉じ込められてしまうということは、わたしたちにも起こりうることです。たとえば、「健康でたくさんの仕事ができる人、生産性の高い人には価値があるが、生産性が低い人には価値がない」という人間の思い込みが、大きな石となってわたしたちを闇の中に閉じ込めてしまうことがあります。もし高齢者が、「わたしは歳をとって、もう人の世話になるばかりだ。なんでこんな情けないことになってしまったのだろう」と嘆くなら、そのとき、その人は自分の心に、「生産性が低い人には価値がない」という思い込みの石を持ち込み、自分で自分を絶望の闇の中に閉じ込めているのです。
 そんな石を、イエスは簡単に転がしてしまいます。思い込みに閉じ込められたわたしたちに向かって、イエスは、「そんなことはない。人間は、ただ生きているというだけで十分に価値がある。情けないことなど何もない」「あなたはこれまで、たくさんの人を助けてきた。今度は、助けられる番になったのだ。互いに助け合いながら生きていく。それこそが人間の最も美しい姿なのだ」と語りかけてくださるのです。イエスの愛の前で、人間によって置かれた石は簡単に転がされてしまいます。どんな人でも、ただ生きているというだけで十分に価値があるのです。
 もう一つ、気をつけなければならない石があります。それは、「これまでに自分は何度も同じ間違いを繰り返してきた。自分はダメな人間なんだ」という思い込みの石です。「あんなに反省し、もう絶対に同じ間違いを犯さないと誓ったのに、またやってしまった。わたしはなんてダメな人間なんだ」と思って落ち込んだ体験は、きっと誰しもあるでしょう。そんな絶望の闇の中に閉じ籠ったわたしたちに、イエスは、「絶対に間違わない人間などいない。なんど失敗しても、あきらめずに立ち上がり、前に向かって進み続けるなら、あなたは必ず変わることができる。わたしはあなたを信じている」と語りかけてくださいます。イエスの愛の前で、わたしたちが自分で自分を閉じ込めた石は簡単に転がされてしまいます。ダメな人間などいません。人間は必ず、変わることができるのです。
 イエスの前では、人間の置いたいかなる石も無意味です。どんな大きな石でも、イエスは簡単に転がしてしまうのです。復活したイエスと共に、いつも光の中を歩み続けることができるよう祈りましょう。

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