バイブル・エッセイ(775)愛の火をともす


愛の火をともす
「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)
 準備ができていた花嫁たちはすぐに花婿を迎えられたけれど、準備ができていなかった花嫁たちは花婿を迎えられなかったというたとえ話が読まれました。最後にイエスが言う、「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」というメッセージが、このたとえ話の意味を要約していると言っていいでしょう。花婿がいつやって来ても、明るくて暖かい火をともしられるように準備していなさいということです。
 ともし火や油が何であるのかは、さまざまな解釈が可能だと思います。もしともし火が愛であるとするならば、愛の火をともすための油は、相手への思いやりでしょう。愛は、相手の苦しみに気づくときに生まれるからです。相手の苦しみに気づき、たとえ自分を犠牲にしても相手のために何かせずにいられなくなる、その心こそが愛なのです。たとえば老人ホームの職員であれば、利用者の皆さんの苦しみに気づき、その苦しみに涙するとき、そこから愛にあふれた奉仕が生まれてくるでしょう。幼稚園の先生であれば、子どもたちが抱えている苦しみに気づき、子どもたちのために何かせずにいられなくなったとき、愛にあふれた保育が生まれてくるのです。
 相手への思いやりを失い、自分のことしか考えられなくなったとき、愛の火は消えてしまいます。仕事に追われ、自分に与えられたノルマを果たすことだけで必死。世間的な名誉、出世に心を引きずられて、目の前の相手の苦しみを忘れしてまう。そんなことになれば、愛の火はどんどん小さくなり、やがて消えてしまうでしょう。愛の火をともし続けるためには、いつも相手の苦しみに心を開いていることが大切なのです。相手の苦しみや悲しみ、痛みを心でしっかり受け止めるとき、わたしたちの心に愛の火がともるのです。
 もしともし火が希望であるならば、希望の火をともすための油は信仰でしょう。どんなにつらいことがあっても、必ず道は開ける。神様が、すべてをよくしてくださる。そう信じるとき、希望の光がわたしたちの心にともるのです。たとえば、病気や愛する人との別離など耐え難いほどの試練に直面したときでも、「神様がわたしといっしょにいてくださるから、絶対にだいじょうぶ」と信じ、「どうかわたしを導いてください」と祈ることができれば、わたしたちの心に希望の光がともります。神様の愛を信じ、すべてを委ねて祈るとき、絶望の闇の中に希望の光がともるのです。
 エス様は、真夜中に来ることもあります。苦しみや絶望の闇の中からイエス様が現れることもあるのです。愛の光、希望の光をともしてイエス様を迎えることができるように、いつも心を準備していましょう。