バイブル・エッセイ(934)人の思惑、神の時

f:id:hiroshisj:20201108163426j:plain

人の思惑、神の時

「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:1-13)

 愚かなおとめと賢いおとめのたとえ話が読まれました。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、ともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた」とありますから、愚かさと賢さの違いは、おとめたちの心構えにあると言っていいでしょう。愚かなおとめたちは、自分の思っている通りの時間に花婿が来ると思っていましたが、賢いおとめたちは、花婿には花婿の都合があり、自分の思った通りに来るとは限らないと知っていたのです。神様には神様の時があり、それは人間の思いとは違うと知っていること。神様の時に備えて、いつでも信仰の灯をともしていられること。神の国の到来を待つわたしたちにも、そのような賢さが求められているとイエスは伝えたかったのでしょう。

 何かを望んで待っているとき、わたしたちはつい「こんなに頑張ったんだから、そろそろ昇進できるだろう。今年こそは大丈夫に違いない」などと考えて、自分に都合のよい予定を立ててしまいがちです。「こうであってほしい」という願いが強くなるあまり、「こうであるはずだ」と考えたくなってしまうのです。結果として、その通りにならなかったときには失望することになります。「こうなるはずだ」と勝手に決めて、それを希望の油にして燃やしている「愚かな人」は、そうならなかったときには油が尽き、火が消えてしまうのです。

 では一体、何を油にして希望の火を燃やし続ければよいのでしょう。それは、神様への信頼だと思います。「自分の思った通りにはならなくても、神様は必ずわたしを救ってくださる。神様には神様の時があるのだ」と固く信じる人は、仮に何年も、何十年も待たされることがあったとしても、希望の火を燃やし続けることができるのです。神様には神様のときがあり、それは人間の思いとは違うということを知っている人、すなわち「賢い人」こそ、何があっても諦めることなく、希望の火、信仰の火を燃やし続けられる人なのです。

 いまの状況に当てはめていうなら、コロナ禍について、わたしたちはそれがいつ終わるのかを知りません。もし自分で都合のいいように考え、「あと半年、長くても1年で元の生活に戻れるだろう」と思って、それを希望にして生きていれば、もしそれが実現しなかったとき、その人の希望の火は消えてしまうでしょう。希望の火を燃やし続けるために必要なのは、「いまは辛くても、神様がかならず救ってくださるときがくる。思いがけない時、思いがけない形でやって来て、すべてをよくしてくださる」という固い信仰です。その信仰を油として持つ人だけが、最後まで希望を捨てず、自分に与えられた使命を果たしながら主人の到来を迎えることができるのです。

 神様には神様の時があると固く信じ、将来のことは安心して神様の手に委ねることができるように、何の恐れも不安もなく、日々自分に与えられた使命を果たしながら主を待ち続けることができるようにとお祈りしましょう。

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞよろしくお願いします。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp