バイブル・エッセイ(783)ゆるしを信じる


ゆるしを信じる
 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)
 聖霊を弟子たちに与えるとすぐ、イエスは「誰の罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。誰の罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」と言いました。ゆるされないままの残る人がいないように、神の愛を知らないままに終わる人が一人もいないように、すべての人にゆるしの福音を伝えなさいということでしょう。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」ということは、イエス自身が父なる神から与えられたのと同じ、ゆるしの使命を弟子たちに与えて派遣するということだったのです聖霊の恵みが与えられたのは、その使命を果たすためでした。
 この箇所からわかるのは、聖霊の恵みは、イエスによって罪をゆるしていただいたときわたしたちの心に宿るということです。エスを裏切った罪の意識にさいなまれ、苦しみ、怯えている弟子たちの前にイエス自身が現れ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけたとき、イエスが弟子たちの罪を、まるで何事もなかったかのようにゆるしたとき、聖霊が弟子たちの心に宿ったのです。自分の意気地なさを思い知って打ち砕かれた心を、すべてをゆるし、受け入れる神の愛が満たした。それが聖霊降臨の体験だったのではないでしょうか。
 聖霊の恵みを受けるためには、どうしてもゆるしの体験が必要です。ですが、これがとても難しいように思います。確かに、イエスはどんなときでもわたしたちに向かって、「あなたがたに平和があるように」と語りかけておられます。イエスがわたしたちの罪をゆるしてくださるのは確実なことです。ですが、その言葉を信じるのがとても難しいのです。わたしたちは自分がゆるされたということを、なかなか信じられないのです。わたし自身、どんなに神の愛について学んでも、「何度、反省しても同じ間違いばかり繰り返しているこんなわたしが、本当にゆるされるのだろうか」「いつも悪いことばかり考えているわたしが、ゆるされるはずがない」という疑いを、なかなか拭い去ることができません。ですが、それでは、聖霊を受けることができないのです。
 自分自身の心に、「まだゆるされていないのではないか」という疑いがあると、それがわたしたちの日常生活に大きな影を落とすことになります。自分自身がゆるされたことを信じていない人が、どんなに神の愛のすばらしさを語ったとしても、それは口先だけの言葉になってしまうでしょう。神父であるわたし自身のことで言えば、ミサを立てていても「こんなわたしが、皆の前で偉そうなことを言っていていいのか」という恐れや不安が心をかき乱すことになります。それでは、神の愛を力強く語ることはできません。どんなにすばらしい賜物を与えられたとしても、聖霊の恵みによって心が満たされていないなら、何の役にも立たないのです。
「こんなにも罪深いわたしを、イエスはそれにもかかわらずゆるしてくださった」と、心の底から信じたいと思います。ゆるしをなかなか信じられない弟子たちに、イエスは二度「あなたがたの心に平和があるように」と語りかけました。イエスは、わたしたちにも同じようにして下さいます。ゆるしを心の底から信じられるまで、何度でも「あなたがたの心に平和があるように」と語りかけて下さるのです。その言葉を信じ、受け入れたとき、わたしたちの心をやすらぎと喜びが満たします。それこそが、聖霊降臨なのです。わたしたちの心に聖霊が降るように、心から祈りたいと思います。