バイブル・エッセイ(816)生きたパン


生きたパン
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(ヨハネ6:41-51)
「わたしは、天から降って来た生きたパンである」とイエスは言います。人間が生きていくために最も必要な「命のパン」が愛であるとするならば、イエスは「生きている愛」だということでしょう。これまで天使や預言者たちの口を通して語られ、書物を通して知るだけだった神様の愛が、イエスにおいて受肉し、目に見える姿をとった。わたしたちにほほ笑み、語りかけ、温かな手を差し伸べる、生きている愛になった。それが、イエスは「生きたパン」であるということの意味でしょう。
 旧約の時代、長旅に疲れて道端で死を待っていたエリヤに、神さまは「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」(列王上19:4)と呼びかけられました。旅を続けるために必要な食べ物を、エリヤのために準備して下さったのです。人生の長い旅を続けるわたしたちにも、神さまは同じ言葉をかけてくださるに違いありません。「この人生の旅は長く、あなたには耐え難い」とわたしたちに語りかけ、わたしたちのために糧を準備してくださる方、それが神さまなのです。それは、口から入る食べ物だけではありません。神さまは、口から入る食べ物だけでなく、わたしたちの心を支える糧も、日ごとに準備してくださいます。人々の心に宿って「生きたパン」となり、愛の力でわたしたちを支えてくださるのです。
 神さまの愛は、わたしたちの心に宿って「生きたパン」となります。久しぶりに会った誰かに、真心をこめてにっこりほほ笑みかけるとき、病気で苦しんでいる誰かに、やさしい言葉をかけるとき、転んでいる人に、そっと助けの手を差し伸べるとき、わたしたちの心に神さまの愛が宿り、わたしたちは「生きたパン」になるのです。わたしたちを通して神さまの愛を食べた人たちの心は、喜びと力で満たされます。「生きていてよかった」「よし、今日も頑張るぞ」と、再び歩き出すことができるのです。「生きたパン」「生きている愛」こそ、「命のパン」、わたしたちの人生の旅を支える魂の糧だと言っていいでしょう。
 わたしたちには、「生きたパン」として互いを支え合う使命が与えられています。この使命を果たすためにまず何よりも必要なのは、わたしたち自身が「生きたパン」であるイエスを通して、神さまの愛に養われていることでしょう。エスは、今日も生きておられます。聖書の言葉を通してわたしたちに語りかけ、共に祈るわたしたちの間にいてわたしたちを支え、御聖体としてわたしたちに自分を与えてくださるのです。
 祈りの中で「生きたパン」を食べ、生きた愛によって心を満たされるとき、わたしたち自身が「生きたパン」に生まれ変わります。神さまの愛の生きているしるしとなって、出会う人たちの心を養うことができるよう共に祈りましょう。