バイブル・エッセイ(1015)誘惑を退ける力

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誘惑を退ける力

 イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。(ルカ4:1-13)

 ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたイエスは、40日間荒れ野をさまよい、悪魔から誘惑を受けたと福音書は伝えています。極限状態の中でイエスはさまざまな誘惑を受けますが、そのすべてを退けることができました。なぜでしょう。それは、イエスが「聖霊に満ちて」いたからだと思います。洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子」という声が天から響くのを聞いたイエスの心は、悪魔がつけ入るすきがないほど、すみずみまで聖霊の恵みで満たされていたのです。

 聖霊の恵みで心を満たされるということは、神の愛で心が満たれさているということに他なりません。神の愛で満たされるとき、わたしたちの心に、「わたしは神から愛されている。これこそ、わたしが求めていた救いであり、幸せだ。これ以外には何も必要がない」という深い確信が与えられます。この確信がある限り、わたしたちはどんな誘惑にも屈することがないのです。

 悪魔の一つ目の誘惑は、「空腹を満たすために、石をパンに変えてはどうか」というものでした。しかし、イエスはその誘惑に決して屈することがありませんでした。そんなことをしなくても、もし必要なら、神さまが必ずパンを与えてくださると確信していたからです。もしイエスの心に、神の愛をほんのわずかでも疑う気持ちがあれば、「神さまは、本当にわたしのことを覚えているだろうか」などと不安になり、たちまち悪魔の誘惑に乗ってしまったことでしょう。悪魔は、そのようにして人間を神から引き離す名人なのです。しかし、たとえ悪魔でも、神の愛を信じて疑わない人。愛の中で神と固く結ばれている人を、誘惑することはできません。

 二つ目の誘惑は、「もし悪魔を拝むなら、世界中の国々の権力と繁栄を与えよう」というものでした。しかし、イエスはその誘惑に決して屈することがありませんでした。もし全世界を手に入れたとしても、神の愛を失ってしまうなら、何の意味もないと分かっていたからです。神の愛を知っている人にとって、神の愛を失うということは、生きながら死んでしまうのと同じことです。たとえ全世界を手に入れても、自分の心を失ってしまうなら何の意味もない。そのことがはっきりわかっていたからこそ、イエスは悪魔の誘惑をきっぱり断ったのです。

 三つ目の誘惑は、「神の子であることを証明するために、屋根から飛び降りたらどうか」ということでした。しかし、イエスはその誘惑に決して屈することがありませんでした。「これほどまでに自分を愛してくださる神を心配させ、神の愛を試すのはよくないことだ」とすぐに分かったからです。神の愛で満たされた人は、神の愛を試そうなどとは決して思わないのです。

 聖霊をしっかり受け止め、神の愛で心が満たされていること。それが何より大切だと思います。神の愛で心が満たされている人を、悪魔は決して誘惑できないからです。この四旬節のあいだ、神との交わりをより一層深め、あらゆる誘惑を退けていけるよう、心を合わせて神に祈りましょう。

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