バイブル・エッセイ(1073)喜びの泉

喜びの泉

 そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」さて、その町の多くのサマリア人はイエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:5-15、19b-26、39a、40-42)

 ヤコブの井戸の傍らで、イエスがサマリアの女性に「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と話す場面が読まれました。イエス自身、喉が渇いているのですから、ここでイエスがいう「わたしが与える水」「永遠の命に至る水」というのは、喉の渇きをうるおす水のことではないようです。イエスはいったい、何をいっているのでしょう。

 イエスが与える水とは、イエスがもたらす福音、すなわち「神さまはあなたを愛している」という喜びの知らせのことでしょう。福音を告げられたとき、わたしたちの心から「神さまは、こんなわたしでも見捨てることなく、愛してくださっている」という大きな喜びが湧き上がります。この喜びが、「永遠の命に至る水」なのです。

 この喜びの泉を掘り当てるためには、まずイエスの言葉、イエスの愛を心によくしみ込ませる必要があります。パウロはこの愛について、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」と記しました。回心する前、まだ罪の中にあったわたしたちのためにイエスが死んでくださったということは、つまり、イエスは、わたしたち一人ひとりがかけがえのない神の子であり、いまは罪の中にあったとしても、その心の奥深くには必ず神の愛が宿っていると確信していたことを意味しています。

 もしかすると、いま現在も、わたしたちの心は罪の中にあるかもしれません。しかし、イエスはそんなわたしたちを信じ、わたしたちのために命を投げ出してくださいます。まるで親が、「こんな間違いを犯した子どもだけれど、本当はいい子なんです」といって、子どもが犯した罪のために自分を犠牲にするように、イエスはわたしたちのために自分を犠牲にしてくださるのです。その愛が心に深くしみ込むとき、わたしたちの心の奥深くから静かに湧き上がってくる喜び。その愛を思い出すたびに湧き上がり、生きる力を与えてくれる喜び。それこそが、「永遠の命に至る水」なのです。

 この喜びの泉は、わたしたちがどこにいても湧き上がります。そして、喜びの泉が湧き上がるたびごとに、わたしたちは神さまに感謝し、神さまに祈るのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る」とイエスがいうのは、きっとそのことでしょう。わざわざ聖地まで行かなくても、この街にいても、たとえ病気で自分の家から出られなくても、わたしたちは自分がいる場所で命の水を飲み、神を賛美することができるのです。

 どこかに集まって聖書の言葉を聞くときにも、イエスの言葉、イエスの愛は、わたしたちの心に深くしみ込みます。教会でのミサが、こんこんと湧き上がる、豊かな命の泉であることはいうまでもありません。共に喜びのうちに神を賛美し、喜びに満たされた毎日を生きることができるよう祈りましょう。

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