バイブル・エッセイ(893)信仰の光

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信仰の光

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-17)

「あなたがたは世の光である...あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」とイエスは言います。わたしたちの心に宿った信仰の光、喜びの光、愛の光を隠してはいけない。恐れずに、人びとの前に輝かせなさいと言うのです。

 この聖句にぴったりの出来事が、先日、宇部で起こりました。宇部教会で開催された「フランシスコ教皇来日感謝祭」で、教皇との出会いを体験した9人の方々が、みんなの前でその喜びや感動を分かち合ってくださったのです。話してくださった方たちは、幼稚園の給食の先生やパートタイムで働く主婦、老人ホームのシスターなど、ごく普通の信者で、世間的に見れば目立たないところにいる方たちでした。ところが、一人ひとりの分かち合いは、喜びと希望、力に満ち溢れ、まさに信仰の鏡とも言うべきものでした。どんなに勉強した神父でも、あれほどまでに感動的な話はなかなかできないでしょう。「ともし火をともして枡の下に置いてはいけない」とは、まさにこのことだと思います。わたしたち一人ひとりの心に宿った信仰の光は、勇気を出して人々の前に輝かせるとき、地の果てにまで希望や勇気、力を届けることができるのです。

 わたしたちは、自分のうちに宿った信仰の光、神さまがともしてくださったこのともし火を、過小評価しすぎているのではないかという気がします。わたしたちの心に希望と喜び、力をもたらしてくれたこの光は、わたしたちだけを照らすために与えられたものではないのです。もちろん、わたしたち自身を照らし、立ち上がる力を与えてくれる光ではあります。ですが、立ち上がったならば、今度はその光をみんなのために高く掲げることがわたしたちの使命なのです。

 たとえば、車いすの真人くんと一緒に教皇様と会った中村さんが分かち合いの中でこう言われました。

「家族の中でも、教会の中でも一番小さい存在だと考えていた真人のおかげで、わたしたちは教皇様のところへ連れていってもらえました。真人と共に歩んでいけば、わたしたちを素晴らしいところへ導いてくれると思いました。」

 この言葉は、今回の教皇来日のメインテーマ「すべてのいのちを守るために」を完成するものではないかとさえ思われます。すべての命は、神さまの目から見たとき限りなく尊いものであり、神さまからわたしたちに与えられた贈り物なのです。障害や病で苦しんでいる方々、社会の中で小さなものと見なされている方々に寄り添うとき、わたしたちは本当の幸せへと導かれるのです。中村さんを通して神さまが与えてくださったこの言葉は、聞く人たちの心に希望と力、勇気を与えることでしょう。

 他の方々の分かち合いも、一つひとつが本当に素晴らしいものでした。わたしたち一人ひとりの心を照らすために与えられた光は、全世界を照らすために与えられた光、全世界を照らすことができる光でもあるのです。その光を恐れずに高々と掲げることができるよう、この地上に神の栄光を輝かせ、人びとに希望と喜びをもたらす働き手となれるよう祈りましょう。