バイブル・エッセイ(882)目を開く

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目を開く

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタイ24:34-44)

 飲んだり食べたり、日々の仕事に追われたりするうちに、神さまのことをすっかり忘れてしまうわたしたちに、イエスは「目を覚ましていなさい」と語りかけています。どんなときでも神さまの愛を忘れないようにしなさい。目を開いて、神さまの愛の光の中を歩みなさいというのです。

 フランシスコ教皇は、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、現代社会の最大の危機は、人間の心に生まれる虚しさだと指摘しています。神さまと交わりを断ち切り、隣人との間に壁を作り、自分の中に閉じこもるときわたしたちの心に生まれる虚しさ。それこそが、諸悪の根源だというのです。このような虚しさが生まれるとき、わたしたちは欲望を満たすことによってそれを埋めようとします。ですが、どんなに食べても、どんなに飲んでも、どんなに森を切り倒して大きな家を建てても、戦争で領土を拡大しても、それで人間の心が満たされることはありません。この虚しさは、際限なくすべてを呑み込んでしまうブラックホールのようなものなのです。この虚しさを、闇と呼んでもいいでしょう。自分のことばかり考え、神様にも隣人にも目を閉ざすとき、わたしたちの心に闇が生まれるのです。

 この闇に対抗するための唯一の方法が、「目を開く」ことです。自分のことばかり考えるのをやめ、神様に向かって目を開く、苦しんでいる隣人たちに向かって目を開くとき、わたしたちの心に愛の光が射しこみます。愛の光が射しこむとき、闇は消え去り、心はすみずみまで喜びで満たされるでしょう。それこそ、わたしたちの救いなのです。「目を開く」とは、救われることだと言ってもいいでしょう。目を開きさえすれば、神の愛に目を向け、隣人に心を開きさえすれば、わたしたちは救われるのです。

 「神さまなんか気にしていたら、自分の人生を楽しめない」「隣人のために自分の時間を使ってしまうなんてもったいない」、そのように考えて、わたしたちは闇の中に落ち込んでゆきます。どうもわたしたちは、目を覚ましているようでいて、何も見えていないことが多いようです。自分の思いを放棄して、神さまの思いのままに生きるときにこそ、わたしたちは一番自分らしく生きられる。隣人のために時間を無駄にするときにこそ、わたしたちは実は、一番有効に時間を活用している。目を開いてそのことに気づかない限り、わたしたちはいつまでたっても闇の中をさまよい続ける他ないでしょう。

 今回の来日中も、教皇様は繰り返しこのことを訴えられました。生産性のみに注目し、効率優先で進んでゆく世界は、人間の心に虚しさを生み、その虚しさは結果として世界を滅ぼすのです。どんなときでも、神さまの愛に目を開いていることができるよう、いつも喜びの光の中を歩んで行けるよう、共に心を合わせて祈りましょう。