バイブル・エッセイ(901)新たな一歩を踏み出すために

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新たな一歩を踏み出すために

過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」とパウロは言います。イエスが、ご自分の肉と血、ご自分の命さえもわたしたちのために捧げるほどわたしたちを愛してくださった。わたしたちのために死んでくださった。そのことを思い出して感謝し、喜びと力に満たされて人々に神の愛を伝えてゆく。それこそがわたしたちの使命なのです。

 まもなく洗礼式が行われますが、7つの秘跡を覚えているでしょうか。洗礼、堅信、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階と、あともう一つはなんでしょう。聖体と答える人もいるかもしれませんが、正確に言えば「エウカリスチアの秘跡」です。エウカリスチアとは、ギリシア語の感謝する、賛美するという言葉に由来する呼び名で、「感謝の祭儀」と訳されたりします。御聖体だけでなく、御聖体を頂点とする「感謝の祭儀」全体が秘跡、すなわち神さまの愛の目に見えるしるしなのです。

 ですから、ミサの中で一番大切なのは、十字架の死に至るまでイエスがどれほどわたしたちを愛してくださったか。神様がわたしたちをどれほど愛してくださっているかを思い出し、感謝することです。神様の愛を心の底から実感して感謝し、喜びにあふれて神を賛美する秘跡。その頂点に、御聖体において神様の愛と深く結ばれる聖餐式があるのです。

 今日の福音では、イエスが弟子たちの足を洗う箇所が読まれました。イエスは、わたしたちの汚れた足を洗ってくださる方。人生の歩みの中でわたしたちの心についた汚れを、すっかり洗い清めてくださる方なのです。遠慮する必要はまったくありません。イエスは、わたしたち人間がどれほど弱く、罪を犯しやすい存在かをよく知っておられます。自分でさえ見るのが嫌なくらい汚れた心でさえ、イエスは嫌な顔一つせずに見つめ、洗い清めてくださるのです。わたしたちは、ただ安心して、自分の心をイエスに差し出すだけでいいのです。あとのことは、すべてイエスがしてくださいます。イエスは、わたしたちの汚れた心に愛を注ぎ、恐れや不安をぬぐい取り、喜びと力で満たされた新しい心にしてくださるのです。その喜びと力を神にお捧げし、神に心の底からの感謝を捧げる、それが今日のミサだと思ったらいいでしょう。

 わたしたちの足を洗ったイエスは、今度は「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言います。今度は、わたしたち自身が相手の汚れた心をあるがままに受け止め、愛で包みなさいというのです。相手の弱さを直視しつつも決して裁かず、ゆるし、受け入れなさいというのです。自分の心がどれほど汚れていたか、イエスが嫌な顔一つせずにその汚れを受け入れ、ゆるしてくださったかを思い出せば、わたしたちは相手を裁くことができなくなるでしょう。

 すべては、イエスに足を洗っていただくことから始まります。イエスに足を洗っていただいた人だけが、イエスの弟子として歩み始めることができるのです。人生の歩みの中で汚れた心をイエスに差し出し、すっかり洗っていただくことができるように祈りましょう。

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