バイブル・エッセイ(900)イエスという答え

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イエスという答え

昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:45-54)

 イエスが十字架の苦しみのさなかに発した言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」が、今年はより一層切実な言葉として響いてきます。いま世界中で多くの人々がこの同じ問いを発しているからです。「わが神、なぜわたしがこの病気にかからなければならないのですか」「わが神、なぜわたしの母親をこんな仕方で奪うのですか」「わが神、なぜうちの子どもをこんなひどい目にあわせるのですか」、新型コロナウィルスに感染した人やその家族から、日々発せられるこの「なぜ」という問いに、神は一体どう答えるのでしょう。果して答えはあるのでしょうか。

 大きな自然災害が起こったり、伝染病が流行してたくさんの命が奪われたりするたびごとに、「神がいるなら、なぜこんなひどいことが起こるのか」と疑問が生まれてきます。神を信じている人にとっては、この疑問はより大きく、深刻なものになるでしょう。これまで「わたしは神様から愛されている。神様がわたしを見捨てることは決してない」と心の底から信じて生きてきたからです。それにもかかわらず、ひどい苦しみの中にあって助けを求めて叫ぶ自分の声に、神様がまったく答えてくれない。そんなとき、「なぜ」と問いたくなるのは当然のことだと思います。

 一生懸命に「なぜ」と考えてゆくと、いくつかの可能性を思いつくでしょう。たとえば、「神は人間を罰するためにこの疫病をもたらしたのだ」とする説。ですが、ならばなぜ悪事を犯した本人だけでなく、赤ん坊や幼い子どもたちまで命を奪われるのでしょう。「天国に行けばこの苦しみよりずっと大きな喜びが与えられる」とする説。この説は、最終的にはきっとそうなのだろうと思いますが、なぜ今こんなひどい苦しみが与えられるのかということに答えていないし、わたしたちの間にまだ天国を見た者がいないことからやや説得力に欠けるようです。

 納得できる答えが出てこないことから、「神などいないのだ。神がわたしを愛しているなんて嘘だったんだ」という結論に達する人もいるでしょう。ですが、自分に理解できないからといって神様の存在そのものを否定するとしたら、それは傲慢ではないかとわたしは思います。

 では、どうしたらいいのか。その答えは、いま読まれた聖書の箇所の中にあります。そう、イエスと共に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と神に問い続ければいいのです。苦しみの中でこの問いを発っしている人と共に「わが神、わが神、なぜわたしの愛するこの人をお見捨てになるのですか」と神に問い続ければいいのです。イエスでさえ分からなかったことを、わたしたちが理解できるはずがありません。わたしたちにできるのは、イエスと共に問い続けることだけなのです。イエスは問い続けるわたしたちのそばにいて、わたしたちの苦しみを最後まで共に担ってくださるでしょう。

 イエスと共に問いかけながら、この苦しみを乗り越えたときにこそ、わたしたちが求めていた答えが与えられるはずです。それはきっと、イエスと共に苦しみを乗り越え、復活の栄光に達した者にしかわからない答えであるに違いありません。どんなときでもわたしたちと共にいてくださるイエスを信じ、この試練のときをイエスと共に乗り越えられるよう祈りましょう。

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