バイブル・エッセイ(1147)イエスと共に生きる

イエスと共に生きる

 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:12-16、22-26)

 最後の晩餐の席でイエスがパンを裂き、「取りなさい。これはわたしの体である」といって弟子たちに与える場面が読まれました。この言葉によって、パンはイエスの体に変わった。わたしたちが集まってミサを捧げ、パンを神にお捧げするとき、そのパンはイエスの体に変わる。これが、わたしたちの信仰であり、御聖体の秘跡の意味だといってよいでしよう。
 イエスは復活して天に上がる前に、「わたしは世の終わりまであなた方と共にいる」と約束してくださいました。それは、一つには、イエスの愛がわたしたちの心の中で生きている。わたしたちが神の子として与えられた使命を果たし、神の愛を生きるとき、わたしたちの中でイエスが生きているという意味にとれるでしょう。神の子らしく生きて、天の父に「アヴァ、父よ」と語りかけるとき、わたしたちの中にイエスが生きているのです。
 しかし、イエスが生きているのは、わたしたちの心の中だけではありません。わたしたちの体の中にも、イエスが生きています。なぜなら、わたしたちはイエスの体である御聖体を頂いているからです。頂いた御聖体は、わたしたちの体の中に入って吸収され、わたしたちの体の一部となります。どんな栄養になって、体のどの部分を作るのかというようなことはよくわかりませんが、イエスの体がわたしたちの体の一部になることは間違いないといってよいでしょう。イエスは、わたしたちの体の中で生きているのです。
 そう思うと、自分の体が何か違って見えるような気がします。この体の中に、確かにイエスが生きている。そう思うと、自分の体がとても大切で、愛おしいものに感じられるのです。自分の体が気に入らないという人もいるかもしれません。「最近はあちこち痛むし、外見も衰えてきた。どうも気に入らない」、そう思ったとしても、その体の中にイエスが生きているのです。わたしたちの体はイエスを宿した体であり、神の住む神殿なのです。たとえ古くなったとしても、それは風格が増したということであり、より厳かな聖なる神殿になったと考えたらよいでしょう。
 「世の終わりまであなたがたと共にいる」という約束を実現するために、イエスはパンをご自分の体とし、御聖体として残してくださいました。御聖体を頂くことによって、わたしたちは、イエスの手となり、足となって、この世界に神の愛を証しする使命を与えられたといってもよいでしょう。わたしたちが、苦しんでいる人、悲しんでいる人に向かってにっこりほほ笑みかけるならば、そのほほ笑みは必ずイエスの面影を宿しているのです。御聖体を頂くたびに、そのことを思い出したいと思います。イエスが心の中に生きていること、そして、体の中にも生きていることを日々思い出し、心と体のすべてで神の愛を証していくことができるようお祈りしましょう。

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