バイブル・エッセイ(959)足を洗う愛

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足を洗う愛

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。(ヨハネ13:1-11)

 過ぎ越し祭で、イエスが弟子たちの足を洗う場面が読まれました。このときイエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とヨハネは記しています。残される弟子たちのことを思い、この弟子たちのために、残されたわずかな時間の中で自分にできることをすべてしておきたいと思われたのでしょう。そのときイエスが選んだのが、弟子たちの足を洗うということでした。足を洗うという行いは、イエスが弟子たちに残した最後の、そして究極の愛だったのです。

 足を洗うということからまず感じられるのは、弟子たちへの感謝です。自分の後について厳しい宣教の旅を続け、その中で傷つき汚れた弟子たちの足を見たとき、イエスはその足を洗わずにいられなくなったのでしょう。愛しくてたまらない人の足が汚れているのに気づけば、洗いたい、洗わずにはいられないと思うのが当然なのです。そこでイエスは、食事の途中であったにもかかわらず、上着を脱ぎ、弟子たちの足を洗い始めたのでしょう。

 足を洗う愛には、もう一つの意味が込められていました。弟子たちのあいだでは、最後まで誰が一番偉いのか、イエスの一番弟子なのかという争いがあったと聖書に記されています。イエスにとって、これは大きな気がかりだったでしょう。そのような競争をすれば、たちまちのうちに弟子たちの群れは分裂し、せっかく地上に始まった「神の国」が台無しになりかねなかったからです。そこでイエスは、弟子たち一人ひとりの足を丁寧に洗うことにしました。そうすることによって、イエスが弟子たちの一人ひとりを同じように愛していることをはっきり示し、互いに争う必要などないということを弟子たちに教えたのです。そのように考えると、イエスがペトロに「「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言ったことの意味もよく分かるでしょう。足を洗うということは、イエスが弟子たち一人ひとりを同じように「この上なく」愛していることのしるしだったのです。

 人と自分を比べて相手を妬む、相手の足を引っ張ろうとする、自分が上に立とうとする。そのような人間の思いは、カインとアベルの昔からたくさんの悲劇を引き起こしてきました。福音書の中でも「放蕩息子のたとえ」の中に、同じような兄弟げんかが登場しています。イエスが弟子たち一人ひとりの足を丁寧に洗ったのは、人と自分を比較し、誰かを妬むことから生まれる悲劇から、人類を解放するためだったのではないかとさえわたしには思えます。

 イエスは、弟子たちだけでなく、わたしたち一人ひとりの足も洗ってくださいます。それほどまでに、わたしたち一人ひとりを愛してくださっているのです。そのことが分かれば、もう互いに競争しようという気持ちは起こらないでしょう。イエスの愛に心を満たされ、互いに愛し合い、奉仕し合うことができるよう神に祈りましょう。