バイブル・エッセイ(405)『身を削るほどの愛』


身を削るほどの愛
そのとき、イエスは言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」とイエスは言います。とても受け入れにくい言葉です。イエスの肉を食べ、血を飲むとはどういうことなのでしょう。
 昔、カルカッタの「死を待つ人の家」で働いていたときに、こんなことがありました。あるとき、重い病気で痩せ細り、死にかけたお母さんが「死を待つ人の家」に運ばれてきました。一緒にいた子どもは、近くの施設に預けられることになりました。シスターたちはお母さんに何とか栄養をつけさせようと思って、食事の他にビスケットをあげていましたが、お母さんはそのビスケットを食べませんでした。シスターたちの目を盗んで、こっそりベッドの下に隠していたのです。それは、決して自分のためではありませんでした。ときどき訪ねてくる子どもに与えるためだったのです。このお母さんは、子どもを喜ばせたい一心で、自分の命を削るようにしてビスケットを貯めていたのです。ビスケットには、このお母さんの愛、このお母さんの命が詰まっていると言っていいでしょう。このビスケットを食べた子どもは、お母さんの愛、お母さんの命を食べたのです。
身近なところでも、似たようなことがあります。例えば、幼稚園に子どもたちが持ってくるお弁当です。最近は、キャラ弁と言って、アニメの主人公の顔を卵やウィンナーなどを使って作ったお弁当が流行りですが、よくできたキャラ弁を見るたびにわたしはとても感動します。日々の仕事で疲れているはずのお母さんたちが、お弁当のふたを開けたときの子どもたちの笑顔を想像しながら、朝早く起きて一生懸命に作ったに違いないからです。お母さんが身を削るようにして作ったお弁当には、お母さんの命、お母さんの愛が詰まっていると言っていいでしょう。大喜びでそれを食べる子どもたちは、お母さんの愛、お母さんの命を食べるのです。
 これが、イエスの肉を食べ、血を飲むということではないでしょうか。これから頂く御聖体は、パンが変わってできる何か不思議な物体ではありません。2000年前に、貧しい人々、病んでいる人々のもとを訪ね歩き、「あなたの罪はゆるされた」、「あなたの願った通りになるように」と優しく声をかけられたイエスの体そのもの、十字架上で命さえも捧げて神の愛を証したイエスの体そのものなのです。エスが、身を削るようにして与えて下さるこのパンの中には、イエスの愛がぎゅっと詰まっています。イエスの命そのものと言っていいくらいのパンです。このパンを食べるとき、わたしたちはイエスの愛、イエスの命を食べるのです。
 パンの栄養は、体に力を与えてやがて消えてゆきますが、パンに込められた愛はいつまでも消えることがありません。ビスケットやお弁当の栄養はすぐになくなったとしても、ビスケットやお弁当から受け取ったお母さんの愛は、死ぬまで子どもの心に残り続け、子どもに生きる力と勇気を与え続けるに違いないのです。エスの愛も、わたしたちの心にいつまでも残り続け、わたしたちの心に生きる力と勇気を与えてくれます。御聖体にこめられたイエスの愛をしっかりと受け止めて、日々を生きるための力、わたしたちの命としてゆきましょう。