バイブル・エッセイ(97)永遠の命

《お知らせ》8月14日から17日まで、中高生会キャンプのため留守にします。この間、ブログの更新やコメントへの応答はできません。皆様方の御理解と御協力をお願いいたします。
 
 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
(ヨハネ6:41-51)
 今日の福音の中で、イエスは永遠という言葉を繰り返し使っています。少し抽象的な言葉です。永遠とは一体何なのでしょうか。
 永遠とは、きっと時間から解放されているということ、時間を超えているということだろうと思います。神の愛に満たされながら時間を超えて生きること、それが「永遠の命」ということでしょう。
 日常生活の中で、わたしたちはときに永遠に触れることがあります。先日、海に泳ぎに行ったときにもそんな体験をしました。美しい白砂の浜辺と冷たく澄んだ海の水、どこまでも広がる空、それらを通して神の恵みを全身で感じながら泳いでいるうちに、ふと気がつくと夕方になっていたのです。泳いでいるあいだ、わたしは時間から解放され、永遠の先取りを味わっていたのだと思います。
 ミサの中でも、同じような体験をすることがあります。御言葉や御聖体を通して神の恵みを全身で感じているうちに、あっという間にミサが終わっている。時間の流れを少しも感じなかったというような体験が、皆さんにもきっとあるでしょう。そんなとき、わたしたちは神の愛に満たされて時間からの解放、永遠の先取りを味わっているのだと思います。そんなとき、わたしたちは「永遠の命」を生きているのです。
 「命のパン」であるイエスに養われながら、いつか「永遠の命」に完全に移される日を目指して共に歩んでいきましょう。 
※写真の解説…慶野松原にて。