バイブル・エッセイ(815)永遠の命のパン


永遠の命のパン
 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:24-35)
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」とイエスは言います。イエスが与えるパンは、どんなに食べても、またすぐにお腹がすいてしまうような地上のパンではなく、一度、本当に味わえば、二度と飢えることがなくるほどのパン。命を養うパンだと言うのです。
 ここでイエスが言っているのは、わたしたちの心の飢えのことでしょう。天からのものではないパン、地上のパンとは、人間の欲望を満たす財産や名誉、権力などのことだと考えられます。そのようなものは、どんなにたくさん手に入れたとしても、決して心を満たすことがありません。欲望は、一時的に満たされるかもしませんが、またさらに大きな欲望が目覚めて激しい飢えが生まれるます。そのことの繰り返ししかないのです。
 さらに悪いことに、欲望を満たすことしか考えられなくなった人の心、地上のパンに執着する人の心には、さまざまな罪が入り込みます。たとえば、自分の利益や名誉のために、家族や友だち、大切な仲間を犠牲にする罪。嘘をついて仲間を欺く罪。自分の利益や名誉を脅かすかもしれない相手に対する嫉妬や怒り、憎しみなどです。こうして、欲望を満たすために地上のパンに手を伸ばした人たちは、執着にからめとられ、心を曇らせて滅びてゆくことが多いのです。地上のパンとは、食べれば食べるほど飢えが大きくなり、執着を生んでわたしたちを滅ぼしてゆく偽りのパンなのです。
 それに対して、エスが与えるパンは、そのような私利私欲がまったく混じっていない、純粋な愛のパン、天上のパンです。もし地上のすべてを失ったとしても、わたしたちをあるがままに受け止め、無条件に愛して下さる愛のパン。それが、イエス・キリストなのです。このパンを食べるときにだけ、わたしたちの心は満たされてゆきます。喜びと安らぎ、力ですみずみまで満たされ、二度と飢え渇くことがないのです。
 では、どうしたら命のパンを頂くことができるでしょうか。そのためには、パウロが言うように、「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送る」(エフェソ4)ことだと思います。地上のパンへの執着をきっぱりと捨て、ただひたすら神の愛に心を向けるとき、わたしたちの心は神の愛で静かに満たされてゆきます。際限なく大きくなり、心を圧し潰そうとしていた欲望は、どこかに消えてしまい、あとにはただ神の愛のぬくもりだけが残るのです。
 地上のパンの虚しさをよく知っていた聖イグナチオは、「あなたの愛と恵みを、わたしにお与え下さい。それだけで十分です」と祈りました。わたしたちも、地上のパンへの執着を捨て、神の愛のパン、永遠の命のパンに生かされる人になれるよう、心を合わせて祈りましょう。