バイブル・エッセイ(916)誰もが幼子

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誰もが幼子

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)

「これらのこと」、すなわち、神の子として生きる道、救いへの道を「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とイエスは神に感謝します。「知恵ある者や賢い者」とは、勉強したり経験を積んだりする中で、自分には知恵がある。自分は賢いと思い込んでしまった人たちのことでしょう。このような人たちは、イエスの教えより自分たちの知恵や体験を重視するので、救いへの道になかなか入ることができません。自分がまだ何も知らないことを知り、謙虚な心で神の言葉に耳を傾ける人たち、すなわち「幼子のような者」にこそ救いへの道は開かれる。イエスはきっと、そう言いたいのでしょう。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という言葉も、同じメッセージ、つまり謙虚さこそが救いへの道であるというメッセージを語っています。「重荷を負う者」と言われていますが、謙虚さを欠いている人の場合、自分はあれもこれもできると思い込んでさまざまな仕事や役職に手を伸ばしたり、自分勝手な将来の計画を思い描いたりするけれど、なかなかうまくゆかない。結果として、ストレスや不安、恐れ、嫉妬などさまざまな重荷を背負い込み、押しつぶされてしまうということが起こりがちなのです。謙虚な人は、神さまが与えてくださる、自分の力に見合った荷物を喜んで軽々と背負い、傲慢な人は、自分で背負い込んだ重過ぎる荷物を、不満を言いながら背負う。そう言ってもいいかもしれません。

 コロナ禍の中で起こるさまざまなトラブルについても、背負い込み方は人によってずいぶん違うように思います。「知恵のある者や賢い者」は、ついこれまでの自分の知識や体験に頼ってしまいがちです。どうしたら自分が慣れ親しんだ元通りの生活を取り戻し、元通りのやり方でやってゆけるかということばかり考え、なかなか元通りにならないことから苛立ちや不安を募らせてく。そのようなことが起こりがちなのです。変化に抗い、自分にとって都合のよい安定を築き上げようとする傲慢が、どんどん重荷を増やしてゆくと言ってもいいでしょう。

 それに対して、「幼子のような者」は、どんどん変わってゆく現実を、穏やかな心で受け止めます。「この変化を通して、主よ、あなたはわたしに何を語っておられるのでしょうか」と日々祈り、その日、その日に神さまが与えてくださる小さな荷物だけを背負うのです。「どんな変化が起こったとしても、神さまがすべてを一番よくしてくださる」と信じているので、将来への不安や恐れの重荷に押しつぶされることもありません。「幼子のような者」は、謙虚な心で神の前に跪き、日々、神から与えられた使命を果たしてゆくうちに、いつの間にか試練を乗り越えてしまうのです。

 変化してゆく世界の中で、これまでの知識や体験は役に立たないことが多い。そのことをしっかり胸に刻む必要があるでしょう。コロナ禍の時代にあっては、誰もが、何も知らない「幼子のような者」なのです。謙虚な心で変化と向かい合い、神さまの導きに従ってこの時代を生き抜くことができるよう祈りましょう。

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