バイブル・エッセイ(1099)天に上げる

天に上げる

 わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(ルカ1:47-55)

  今日は、聖母マリアが神の力によって天に上げられたことを祝う「聖母の被昇天」の祭日です。マリアは、「主は身分の低い者を高く上げ」るといって神さまを讃えていますが、その言葉の通り、謙虚な心で神のみ旨のままに生きた聖母は、死を迎えたとき、神の力によって天高く上げられたのです。
 マリアは、自分を「主のはしため」と考えていました。「身分が低い」というのは、世間の目から見てマリアが、ナザレという地方都市に住む貧しい娘であるということの他に、全知全能の神の前では、自分など取るに足りない存在だという意味が込められていると考えてよいでしょう。自分が神さまの前では取るに足りない存在であることを忘れず、そのような自分に大切な使命を与えてくださったことを感謝して生きる人を、神さまは高く、天国にまで上げてくださるのです。
 たとえば、マリアのように救い主を宿したわけではなくても、「こんなわたしでも、母親になることができた。この子を育てられること、この子を育てられたことを心から感謝します」という気持ちで生きるなら、そんなお母さんを神さまは天高く上げてくださるでしょう。生きているあいだも、心を喜びと力で満たしてくださるはずです。ヨセフのように救い主を育てたわけではなくても、「こんなわたしでも、家族を持つことができた。家族のために働けることに感謝します」という気持ちで生きているお父さんを、神さまは、高く天国にまで引き上げてくださるでしょう。生きているあいだも、心を喜びと力で満たしてくださるに違いありません。神さまの前で自分の小ささを忘れずに生きている人。マリアにならって「こんな取るに足りないわたしに、神さまは、こんな大切な使命を与えてくださった」という気持ちですべてに感謝して生きる人を、神さま必ず高く上げ、喜びと力で満たしてくださるのです。
 逆に、主は「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろす」方でもあります。天に上げるどころか、思い上がりを打ち砕き、自分が無力であることを思い知らせるというのです。これは、とても考えさせられる言葉だと思います。死を迎えるときには、自分はすごい人間だと思い込んでいる人、大きな権力を持っている人でも、自分がまったく無力であることを思い知らされるのです。そのことを思い知らされて謙虚な心を取り戻し、神の前にひざまずくことができるなら、神さまはきっと、そのような人も天国に上げてくださるでしょう。打ち砕かれた謙虚な心を、神さまがお見捨てになることはないからです。
「人間は、その人が生きていたように死ぬ」という言葉があります。その人の生き方が、そのままその人の死にざまに現れるということでしょう。謙虚な心で神に信頼して生きてきた人は、自分の命も神の手に委ねてそのまま天国に入っていきますが、傲慢な心で自分に頼って生きてきた人は、自分の無力さに打ちのめされて苦しみもだえることになるのです。謙虚な心で生きて、いつの日か天に上げていただくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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