バイブル・エッセイ(825)本当の知恵


本当の知恵
 エスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マルコ10:17-22)
「あなたに欠けているものが一つある」と、イエスは話しかけてきたこの人、おそらく若者に声をかけしまた。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」というのです。永遠の命を受け継ぎたいと願うこの人に欠けていたもの、それは隣人を愛するということだったのです。隣人を愛さないなら、それは神のみ旨に反することですから、神をも愛していないことになります。たくさんの律法を守ってきたこの人は、それらの中で最も大切な「神を愛し、隣人を愛する」という掟を守っていなかったのです。欠けているものはたった一つでしたが、永遠の命を受け継ぐために最も重要な一つが欠けていた。それが、この人の不幸だと言っていいでしょう。
「わたしは知恵を王笏や王座よりも尊び、知恵に比べれば、富も無に等しいと思った」と知恵の書は言っています。恐れや不安から解放され、神様の愛の中で幸せに生きていくためには知恵が不可欠。知恵なしに富や名誉、権力を手に入れれば、自ら不幸を招くだけだということでしょう。今日の福音がわたしたちに教えてくれる知恵。それは、分かち合うことだと思います。どれほどたくさんの富を手に入れたとしても、それを分かち合わないなら、決して永遠の命を受け継ぐことはできないのです。
 わたしたちは、何かをしようとするとき、つい「自分にとってこれは得だろうか、損だろうか」と考えてしまいがちです。損得を素早く見分け、得なことはするが、損なことはしないというのが、生きていく上での「知恵」になってしまっていることが多いのです。ですが、この「知恵」にしたがって生きていくと、最後に大変なことになります。自分のためにため込んだすべての富、名誉、権力などは死によって奪い取られてしまうからです。最後に何も残らないとすれば、人生そのものを損したことになるでしょう。素早い損得勘定を「知恵」と思い込んでいると、得をしたつもりで、最後に大損をする。賢いつもりで生きてきた自分が、実は最も愚かだったことに気づくのです。
 本当の知恵は、分かち合うことの中にあります。分かち合うことによって家族や隣人とのあいだに結ばれた愛の絆、神さまとの間に結ばれた愛の絆は、死でさえ奪うことができません。死の床についたとき、誰か一人でも最後まで付き添ってくれる人がいるなら、あるいは、すべての人に見捨てられたとしても、神さまだけは見捨てないと確信できるほど強い絆が神さまとの間に結ばれているなら、その人は幸いです。全体を見たとき最後に得をするのは、分かち合った人だと言っていいでしょう。
 目先の利害損得にとらわれず、分かち合う知恵を持ちたいと思います。神さまがわたしたちに求めておられるのは、ため込むことではなく分かち合うこと。自分だけの幸せを願うことではなく、みんなの幸せを願うことなのです。