バイブル・エッセイ(293)幼子の心


幼子の心
 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11:25-27)
 「知恵ある者や賢い者」には隠され、「幼子のような者」に示されるという救いの神秘。この両者の違いは一体どこにあるのでしょう。なぜ「幼子のような者」にさえ分かることが、「知恵ある者や賢い者」には分からないのでしょう。
 先日、教会学校の子どもたちと遊んでいたとき、小学校1年生の女の子が何かを大事そうに両手で包んでわたしのところに持ってきました。「やぎぃ、これ見て」と言うのでなんだろうと思って手の中を覗き込むと、中に入っていたのはなんとダンゴ虫でした。それも1匹ではなくて4-5匹くらい入っているようです。「うわっ、ダンゴ虫。気持ち悪くないの?」と驚いて尋ねると、女の子は「だってとってもかわいいの。触ると真ん丸になるんだよ」とさもうれしそうに答えたのでした。
 この子はきっと、もぞもぞと動き回って、時おり真ん丸に姿を変えるダンゴ虫の中に生命の神秘を見ていたのでしょう。わたしにとってはただのダンゴ虫だったものが、彼女にとっては一生懸命に生きているかわいらしい生き物だったのです。わたしの目には隠されていた生命の神秘、神の創造の業の片鱗を、彼女の目は確かに見ていたと言っていいでしょう。
 「知恵ある者や賢い者」と「幼子のような者」の決定的な違いがここにあると思います。すべてを知っていると思い込んでいる大人は、日々目にするものを自分の知識や経験の枠組みの中に当てはめてしまいますが、何も知らない幼子の心を持った者にとっては、すべてのものが驚きに満ちた神秘なのです。この、幼子のような心をもう一度取り戻したいと思います。
 よく考えれば、わたしたちは一体何を知っているでしょうか。天地万物は、全能の神によって一瞬、一瞬、新たに創造されてゆきます。ですから、この地球上には、何一つとして昨日と同じもの、私たちがすでに知っているものなどないのです。昨日と同じに見える木も花も、家族や友人も、すべてわたしたちが知っている昨日の木や花、家族や友人ではありません。聖書の言葉でさえそうです。神はわたしたちに、聖書を通して日々新しい言葉を語りかけていますから、たとえ同じ文章でも昨日と今日では違った響きを持っているはずなのです。
 「なんだ、いつもの花や木、家族や友だち、聖書の言葉か」と思うとき、わたしたちは目の前にある神の神秘に対して目を閉ざすことになります。「自分は何も知らない」、「すべては今日、新しく神様によって造られた」と思って、子どものような目で見つめるときにこそ、わたしたちの目の前に神秘の世界が扉を開くのです。神の偉大な創造の業の前では、自分は何も知らない幼子に過ぎないということをしっかりと心に刻み、もう一度、幼子のような心で神秘に満ちたこの世界へと出かけてゆきましょう。
※写真の解説…教会学校キャンプの一コマ。兎和野高原にて。