バイブル・エッセイ(938)謙遜の道

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謙遜の道

 神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)

 

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と洗礼者ヨハネは言いました。荒れ野での厳しい生活を通して、自分自身の弱さや限界をよく知り、神によらなければ何もできないことを知っていたヨハネは、徹底した謙遜を生きる人だったのです。そんなヨハネを通して、人々はイエスへと導かれました。徹底した謙遜に生きるヨハネこそが、「まっすぐに整えられた、主のための道」だったと言ってよいでしょう。

 12月3日は、フランシスコ・ザビエルの記念日でした。鹿児島に上陸したザビエルが、ゴアの仲間たちに宛てた手紙の中に、とても印象的な一節があります。「2年もたたないうちに、あなたたちを日本に呼ぶことになるかもしれない。だから、謙遜の徳を身につけるよう励んでください」というのです。これはちょっと意外な言葉に思えます。日本に来るための準備であれば、語学や天文学、歴史などを学べとか、物資を蓄えよというようなことをまず考えがちですが、ザビエルはあえて、何よりも大切なのは謙遜だと言ったのです。

 この言葉の背後にあるのは、自分自身の弱さを知らない、思い上がった者、神ではなく自分により頼むところがほんのわずかでもある者は、日本に来たとしても、人々をつまずかせることしかできない。自分の力では何もできないことを知り、神の力にひたすらより頼むものだけが、人々をキリストへと導くことができるというザビエルの確信でした。自分の力により頼む人は、大きな困難に直面したとき、自分の無力さに打ちのめされて崩れます。自分の弱さを知り、神にすべてを委ねる人だけが、あらゆる困難を乗り越えて人々に福音を伝えることができる。神への信仰を徹底して生きるその人の生き様そのものが、主のための道となる。多年にわたる宣教旅行の体験を通して、ザビエルはそのことをよく知っていたのです。

 では、どうしたらそのような謙遜を身につけることができるのでしょうか。ザビエルが体験したほどの大きな試練に直面することがないわたしたちにも、自分の弱さを知り、謙遜を身につけることはできるのでしょうか。「日常生活の中の小さなことの中に、まるで鏡に映したように自分の弱さを見つけられる人、そしてその小さなことにおいて自分を克服できる人を、神は高く上げ、助けてくださる」とザビエルは記しています。日々の生活の中のありふれたこと、掃除や食器洗いなどの家事や、雑務と見なされるような目立たない仕事の中で、わたしたちはつい、雑で傲慢な態度を取ってしまいがちです。人間の傲慢さは、大きなことよりも、むしろ小さなことの中に現れることが多いのです。「わたしたちの傲慢をまるで鏡のように映し出す日々の雑事の中で、謙遜を磨きなさい」とザビエルは仲間たちに伝えたかったのでしょう。

 このザビエルのアドバイスを、わたしたちに向けられたものとして受け止めたいと思います。日々の生活の中から、ほんのわずかな傲慢も注意深く取り除くことができるように。そうすることで、主のための道をまっすぐに整えることができるように、心を合わせて祈りましょう。

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