バイブル・エッセイ(968)イエスは生きている

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イエスは生きている

 そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」  主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15-20)

「主イエスは、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した」とマルコ福音書は語っています。昇天という出来事は、弟子たちにとってどんな意味を持っていたのでしょう。なぜ弟子たちは、イエスの姿が見えなくなったにもかかわらず、自分たちだけで世界の果まで出かけてゆき、力強く宣教することができたのでしょう。
 まず復活の意味を振り返ってみたいと思います。復活とは、「イエス・キリストは生きている」ということでした。イエスが世に打ち勝ったこと、ローマの力や律法学者たちの権威に屈服したのではないことを示すため、そして、イエスの愛は何があっても変わらないこと、裏切って逃げた弟子たちをゆるし、受け容れていることを示すために、イエスはご自分の生きている姿を弟子たちに現したのです。弟子たちは、イエスと共に語り合い、食事をし、イエスの体に触りさえして、イエスが生きていることを確信しました。
 では、復活したイエスは、なぜ昇天する必要があったのでしょう。それは、イエスが単によみがえったということだけでなく、永遠に生きておられるということを、目に見える形で弟子たちに示すためだったのではないでしょうか。もしイエスがある時点から突然に姿を消し、弟子たちの前に現れなくなっていたら、弟子たちは困惑したことでしょう。「もしかすると、自分たちは幻を見ていたのかもしれない」とか、「イエスは復活したが、また死んでしまった」と思う弟子さえいたかもしれません。ですが、イエスは突然に姿を消すことはありませんでした。弟子たちの見ている前で天に上げられたのです。イエスが昇天する姿を見た弟子たちは、イエスが神の右の座に着かれたこと、そして永遠に生きておられることを確信したに違いありません。イエスの昇天は、復活したイエスの命が永遠であること、イエスは永遠に生きていて、いつまでも弟子たちと共にいることの目に見えるしるしだったのです。
 生きているイエスの体、イエスの昇天という2つのしるしによってすべてのことを悟ったとき、弟子たちの心は聖霊に満たされました。イエスの永遠の命、永遠の愛を確信し、そのことを力強く人々に告げ始めたのです。昇天の出来事がなければ、復活は完結しなかったと言ってもよいでしょう。
 昇天は、人間の死とはまったく違う出来事です。人間の体は死によって腐敗し、消え去ってゆきますが、イエスの体は永遠に消えることがありません。イエスは、文字通り生きていて、どんなときでもわたしたちと一緒にいてくださるのです。祈りの中でわたしたちは、イエスがまるで目の前にいて、わたしたちに語りかけてくださっているように感じることがあります。わたしたちを見つめるイエスのまなざしを、はっきり感じることもあるでしょう。ですが、それは錯覚ではないのです。イエスは確かに生きていて、その口でわたしたちに語りかけ、その目でわたしたちを見てくださっているのです。復活し、昇天したイエスは、永遠に生きておられる。そのことを確信し、生きているイエスと共に毎日を生きられるよう、そして力強く福音を告げることができるよう共に祈りましょう。

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