バイブル・エッセイ(500)言葉の網を投げる


言葉の網を投げる
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(ヨハネ21:1-19)
 ガリラヤで、復活したイエスが弟子たちの前に姿を現す場面です。漁は、福音宣教の比喩と考えてもいいでしょう。どうしたら魚がたくさん獲れるか、どうしたら福音宣教がうまくゆくか。そのヒントがこの話に隠されているように思います。
 ペトロと弟子たちは、イエスを失った悲しみの中でガリラヤに帰り、生活のために漁に出ましたが、残念ながら魚は一匹も獲ることができませんでした。イエスが岸におられることに気づき、その呼びかけに従って漁をしたとき、ようやく魚が獲れたのです。福音宣教で何よりも大切なのは、復活したイエスと出会い、その呼び声に耳を傾けることだと言っていいでしょう。自分勝手に漁をしていても、決して魚を獲ることはできません。
 福音宣教という漁で使う網の一つは、わたしたちの言葉です。神様の愛がどれだけすばらしいものか、イエスと共に生きる人生がどれだけ幸せかを語ることによって、わたしたちは人々をイエスのもとに集めるのです。そのとき大切なのは、言葉に喜びがあふれ、確信が込められていることだと思います。エスと出会った喜びによって顔が輝き、言葉の端々から喜びが感じられる。そのような言葉を聞いたとき人々は、「この人は、なぜこんなに幸せそうなのだろう。わたしもイエスに出会ってみたい」という気持ちになるのです。
 イエスと出会い、神の愛によって癒された人の言葉は確信に満ちています。確信に満ちて、「どんなことがあっても、神様はわたしたちを愛しておられます。神様がわたしたちを見捨てることはありません」と、はっきり力強く語ることができるのです。そのような力強いメッセージを聞くとき、人々は「この人の言うことは、もしかすると本当かもしれない。もっと話を聞いてみたい」という気持ちになるのです。
 福音宣教という漁に出るための大前提は、しっかりとした網を持っているということです。あちこち破れたぼろぼろの網で必死に漁をしても、魚は決して獲れません。漁のためには、喜びに満ちた、力強い言葉の網が必要なのです。ときどき、自分の網が汚れたり、破れたりしていないか。しなやかさや強さを失っていないか確認する必要があると思います。日々の祈りは、イエスとの出会いを新たにし、イエスの前で網を繕うための時間だと言ってもいいでしょう。
 わたしたちが漁をしているあいだ、岸ではいつもイエスがわたしたちを見守ってくれいます。「何か食べるものはあるか」と気遣ってくれているのです。ときには岸に戻ってイエスと共に食卓を囲むことです。岸は、教会と言ってもいいかもしれません。そこでは、イエスがいつもわたしたちのために命の糧を準備して待っていてくださいます。
 この漁のあと、弟子たちはエルサレムに戻って力強い宣教者になりました。弟子たちの言葉によって人々が集まったのは、弟子たちの言葉が喜びと確信に満ちていたからです。わたしたちもイエスと出会って、喜びと確信に満ちた言葉の網を投げる宣教者となれるように祈りましょう。