バイブル・エッセイ(1016)復活の体

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復活の体

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。ルカ9:28b-36

 弟子たちと共に「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とルカ福音書が伝えるこの出来事は、イエスの復活の先取りだと考えられています。受難に先立って、栄光に満ちたイエスの復活の体が弟子たちに示されたということです。弟子たちが見た輝きは、神の栄光の輝きであり、イエスを満たした神の愛の輝きだと言ってよいでしょう

 復活したとき何が起こるのか、わたしたちにはよく分かりません。すべてを神の手に委ねて死んでゆくのですから、復活した後のことなど心配する必要はないのですが、復活の体がわたしたちの究極の理想だとすれば、それがどんなものなのか考えることには意味があるでしょう。

 今日の場面がわたしたちに教えてくれるのは、復活するとき、わたしたちの体も神の愛に満たされ、神の栄光に輝くということです。体がどんな状態なのか、年老いて死んだときの体なのか、若い頃の体なのか、イエスと同じ30歳ころの体なのか、それはよく分かりませんが、その体が光り輝いていることだけは、はっきりしているのです。わたしたちの体は内側にあるものを表現しますから、体が輝くとすれば、それは心が輝いているということです。もちろんわたしたち自身に栄光はありませんから、正確に言えば、わたしたちの心が汚れも曇りもない鏡のようになるとき、わたしたちの心は神の栄光を映してまばゆく輝き、わたしたちの体もまばゆく輝くのです。

 生きているあいだ、残念ながらわたしたちの心は汚れたり、曇ったりしていています。乱れた執着が生み出す罪や、不信仰が生み出す不安や恐れ、迷いなどによって、わたしたちの心は汚れたり、曇ったりしているのです。その結果、わたしたちの顔も暗くなったり、おどおどびくびくしたりしてしまいがちになります。しかし、復活によってわたしたちの心が神の愛で満たされ、乱れた執着や神の愛への疑いがすべて取り除かれるとき、この暗さは取り去られます。神の愛の中で、わたしたちの心は汚れも曇りもない鏡のようになり、澄みきったわたしたちの心に、まばゆい神の栄光が映し出されるのです。

 神の愛に満たされ、執着や疑いから解放された心と、その心の輝きを映し出す体を持って永遠に生きる。それが、復活だと考えたらよいでしょう。すべての人が、神の愛に満たされた心、汚れも曇りもない心を持っているのですから、もはやその世界には争いもないでしょう。その世界で、わたしたちは互いの間違いをゆるしあい、弱さを受け入れ合い、手を取り合って共に生きていくのです。

 ここにわたしたちの希望があります。「なぜこんなことが起こってしまうのか」と思わずにいられない現在の世界の状況ですが、しかし、この世界は必ず変わるのです。死んだ後だけではないでしょう。わたしたちがイエスと共に生きるなら、必ず、この地上でも復活の栄光を輝かすことができるはずです。愛に満たされた心で、共に生きていくことができるはずです。イエスと共に、復活の栄光をこの世界に輝かすことができるよう心を合わせてお祈りしましょう。

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