バイブル・エッセイ(258)三つの仮小屋


三つの仮小屋
 エスは、ただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコ9:2-8)
 復活の栄光、「神の国」の喜びを先取りするといわれるこの御変容の場面は、ミサの中で起こる出来事に似ているように思います。なぜなら、弟子であるわたしたちの中にイエスの体から神の栄光が輝き、「神の国」の喜びがわたしたちの間に実現するからです。皆さんは気づいていないかもしれませんが、司祭が御聖体を高々と天に掲げるとき、それを見あげる皆さんの顔は輝いています。それは、御聖体から発せられた目に見えない光が、皆さんに反射しているからでしょう。イエスの体が光り輝いている何よりの証拠です。
 ミサの中でイエスの輝きに包まれ、喜びで満たされるとき、わたしたちはペトロと同じようにその瞬間をいつまでも手元にとどめておきたいと望み「仮小屋を三つ立てましょう」とさえ願うかもしれません。ペトロの願いは残念ながらかなえられませんでしたが、わたしたちの願いはかなえられます。ミサが終わった後も、イエスの住む仮小屋が三つわたしたちに残されるでしょう。
 一つ目は御聖櫃です。エスの体を直接に見ることはできませんが、わたしたちはその中にイエスの体がおさめられており、そこにイエスが生きていることを知っています。ですから、御聖櫃の前に来て祈る度ごとに、わたしたちはイエスの存在を全身で感じ取りながら祈ることができるのです。二つ目は聖書です。ミサのあいだ、温もりのある人間の声によってイエスはわたしたちに語りかけます。ミサが終わった後は、聖書という本に書かれた文字の中にイエスは生きておられます。聖書を開くたびごとに、わたしたちはその行間に、また活字の向こう側にイエスの息遣いを感じ、イエスと共にいる喜びを味わうことができます。
 三つ目の仮小屋、それはわたしたち自身です。御聖体を受けるとき、御聖体に宿るイエスの命がわたしたちの身体を隅々まで満たしていきます。それと同時にイエスは、ミサで捧げられるような深い祈りのあいだにだけ開かれる心の一番奥深いところの部屋に入っていかれます。ミサが終わった後も、イエスはその部屋の中にとどまり、わたしたちと共に生き続けられます。日々の祈りの中で心の深みに降り立ち、その部屋に行って祈るとき、わたしたちはいつでも生きているイエスと出会うことができるのです。
 エスが共にいてくださるしるしがなければ復活の喜びを忘れてしまいがちなわたしたちに、神は三つの仮小屋を準備し、そこに行けばイエスの存在、イエスの温もりを感じられるようにしてくださいました。この恵みに感謝し、毎日、仮小屋を訪れることを怠らないようにしたいと思います。
※写真の解説…雪をいただいて真っ白に輝く富士山。