バイブル・エッセイ(1069)愛にとどまる

愛にとどまる

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:38-43)

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とイエスはいいます。「人間は弱くて不完全な存在。神のように完全になんてなれるわけがありません」といい返したくなるかもしれませんが、ここは落ち着いて、イエスが何を言いたかったのかを考えてみましょう。

 そもそも、神の完全さとはどういうことでしょう。神は愛ですから、神が完全であるとは、神はどんなときでも愛に満ちあふれている。怒りや憎しみによって支配されることがないということでしょう。神のように「完全な者になる」とは、心を怒りや憎しみに明け渡すことなく、愛の中にとどまり続けなさい。愛し続けなさい、ということだと考えたらよいと思います。

 怒りや憎しみに呑み込まれるとき、わたしたちの心は「あんな奴いなくなれ」とか、「どうやって復讐してやろうか」とか、そのような思いでいっぱいになります。それはとても苦しいことです。顔つきは暗くなり、心は重くなり、夜も眠れなくなって生活が乱れ始めるでしょう。怒りや憎しみに呑み込まれれば、人間は不幸になるのです。愛の中にとどまり続けなさい、「完全な者になりなさい」というのは、つまり、幸せを自ら放棄してはいけない。あなたたちには、いつも幸せであって欲しいというイエスの願いの現れ、イエスの愛の現れなのです。

 パウロは、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(一コリ3:16)といっています。ここでいう「神の霊」とは、神御自身であり、愛そのものだと考えたらよいでしょう。わたしたちの心は、愛を宿し、愛を生きるために造られた神殿なのです。愛を追い出し、怒りや憎しみに支配させてしまえば、心は崩壊するでしょう。パウロの「神の神殿を汚してはならない」という言葉も、イエスの「完全な者でありなさい」という言葉も、いいたいことは実は同じ。愛を生きることによってのみ、人間は幸せになれる。だから、愛以外のものに心を支配させてはならないということなのです。

 よく読んでみれば、イエスはそれほど無理なことを要求していません。「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とはいいいますが、「相手がこぶしで殴り掛かってきたら、それも受けなさい」とまではいわないし、「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」とはいいますが、「命まで差し出しなさい」とはいわないのです。忍耐できる範囲で忍耐する。それだけでもずいぶん違うと、イエスはいいたいのでしょう。怒りや憎しみに身を任せ、自分の人生そのものを滅ぼしてしまうよりは、できる限り忍耐し、相手をゆるす方を選びなさい。イエスは、わたしたちにそう教えているのです。

「敵を愛する」のはとても難しいことですが、敵を憎んで苦しみの闇の中に落ちることを考えれば、不可能なことではないでしょう。わたしたちを思うイエスの愛をしっかり心に刻み、どんなときでも愛の中にとどまり続けることができるよう祈りましょう。

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